薩摩藩や長州藩は徳川幕府を終わらせて、明治政府を作った藩たちです。
彼らがなぜ幕府転覆を狙ったのかは、まぁ政治の中での地位が高まっていたりしたのと、参勤交代での支出がきつかったからですね。
特に薩摩藩は鹿児島県なので、当時としては日本の内地で最も遠かったわけです。
ここよりきついのは北海道の松前藩、離島の対馬藩、五島藩で、彼らは収入も乏しかったので、反抗する力すら蓄えられませんでした。
じゃあ一往復で藩の年間予算を上回る支出になる薩摩藩がなぜ倒幕するくらいの金があったのか。
一つ目は色々な商人から金を上限いっぱいまで借りました。
今で言えば作れるだけクレカ作って、同日に一気にフルキャッシングして、更に消費者金融とかで借りれるだけ金借りた状態です。
そして言いました。
250年かけて無利子で返すか踏み倒されるか選べ、それ以外は斬る。
う〜ん、流石は生麦事件を起こすだけあって、刀を抜くのが軽い軽い。
これによって事実上現代価値で1兆円の地方債を踏み倒すわけです。
更には密貿易をしていました。
当時は外国と貿易できたのは長崎で、出島が有名ですね。
薩摩藩は琉球と交流があったので、琉球を経由して明(中国)と貿易していました。
幕府は遠いからチェックが行き届かないし、密告があって薩摩藩に調査にいっても、藩の役人全員で隠すので見つけられませんでした。
更には琉球を脅迫して黒砂糖を安く買い叩き、それを大阪で高く売っていました。
長州藩はシンプルに粉飾決算と資産隠しでした。
粉飾決算は普通は売上を多く見せたりしますが、長州藩の場合は少なくして、幕府への上納を減らしました。
それで蓄えた現物資産を領地外に隠したり、領地内でも地下倉庫みたいな場所に隠していたので、査察に来た幕府の人間の目を欺けました。
長州藩は幕府転覆したい派でしたが、薩摩藩は最初は幕府のマブダチになる計画でした。
今風に言えば地方自治体が国政で連立与党組ませてよ、副総理は県知事ね、という感じですかね。
幕府側にはそんなの嫌、連立政権なんて嫌、というのが多かったのと、薩英戦争とか長州征伐とかことごとく幕府が失敗してしまい、こいつ予想以上に権力も財力も軍事力もないから連立組む価値ないのでは?となってしまいます。
なので、実は長州征伐のときは薩摩藩は長州藩潰すの賛成で、その後に長州藩と同盟を組むまでになったりしています。
まぁ幕府も問題ありまくりだったけど、それを正そうとする薩摩藩も長州藩も893と県が癒着というか、893が県を牛耳っているようなレベルでしたから、どっちの意見が日本の未来にとっていいかよりも、最終的にはどっちの暴力が勝つか、という話になったのは当然の帰結ですね。
薩長軍と幕府軍が激突したのは、新撰組を主役とした作品とか色々あるので有名で、最終的には江戸城無血開城とか、大政奉還となったわけです。
大政奉還というのは幕府が政治の権利を天皇に返しますというものなのですが、これって天皇からすると大迷惑。
政治がぐっちゃぐっちゃのミンチになったのに、これをステーキ肉に戻さないといけないの無理なんでお願いしますと言われたようなものです。
しかも天皇って700年間政治やってきてなくて、見ていたり、裏であっちがああいっているよ、とか話をしただけ。
なのでいきなり今の税率正しい?鎖国どうする?とか言われても、なわけです。
で、薩長は天皇が政治できるわけねぇだろ!とブチ切れて、皇居を軍隊で包囲(実質占拠)して、俺らが新しい政府を作ってそこが政治やるから、文句ないよね?と武力で天皇を恫喝して明治政府が誕生しました。
天皇の権威とかないですし、明治政府も結局暴力で成り立ったので、よくまぁ歴史の教科書には綺麗事だけ書かれているなぁと感心するくらい893政府です。
明治政府を誕生させた偉人はたくさんいて、西郷隆盛は鹿児島県代表格の有名人でもあります。
でも西郷隆盛って政府誕生数年で幕府を辞めています。
理由は政権内で揉めて、口喧嘩でボロ負けしたからです。
そして鹿児島に帰るわけですが、戊辰戦争で活躍した武士達は戦争しか活躍する能力がない人達も多くいました。
893の下っ端、鉄砲玉みたいな人達です。
彼らは戦争が終わって、藩同士の小競り合いもなくなったので、仕事がなくなりました。
徳川幕府時代より平和になった結果、困ってしまったので西郷隆盛に仕事くれーとたくさん訪れます。
でも幕府の要職辞めているからそんなにたくさんの求人確保出来ないし、幕府と戦争する気もなかったんですね。
しかしまぁ西郷隆盛の下に集まった人達は893の下っ端なので、ちょっと政府に舐められただけでブチ切れて鹿児島県内にあった役所を襲撃します。
はい、西郷隆盛は反政府テロ組織の親玉決定。
ということで、明治政府が1868年に出来て、1877年には西南戦争を始めます。
これはもう西郷隆盛には勝ち目のない戦いでした。
だって、西郷隆盛には武士が集まっているとはいえ、893の下っ端ばかり。
それに対して新政府軍は、圧倒的な数と多数の豊富な武器(銃火器)、更には元薩摩藩の精鋭が半分以上を占める警察でした。
この精鋭というのが、今の警察で言えばSATとかの特殊部隊な感じです。
単純な数の主力だと元幕府軍の人達で、今で言う機動隊かな。
もちろん西南戦争に政府が勝ったわけですが、戦費は国家予算1年分でした。
お金がなくて困った政府は大量に紙幣を発行して、あっさりと日本一のハイパーインフレ。
このハイパーインフレ起こした人は、後に早稲田大学を設立して、日本史では偉人として紹介されていますが、日本一のハイパーインフレのことで叩かれないのはなぜ?
こいつはやべぇやと、次は大増税とリストラの嵐で大恐慌。
農家みたいに自分で食料を生産していない人はどうやって生き残れたの?と思うくらいのハイパーインフレとデフレの落差が激しかったようです。
これで明治政府がよく転覆されなかったなと思いますが、そこはちょうど西南戦争が終わった後で、政権転覆出来るくらいの武力は警察にしかなかったということで、明治政府は生き残れました。
このことを教訓に政府が紙幣を発行するのではなく、銀行が発行しようねとなって日銀が誕生しましたが、実は日銀より先に民間の銀行がありました。
それが日本初の銀行、第一国立銀行で、創設者は渋沢栄一です。
渋沢栄一の銀行も独自の紙幣を発行しており、政府が発行する紙幣よりも信用があったりもしましたが、渋沢栄一の意見をガン無視して、日銀が発行する紙幣以外は偽札ねと決めました。
渋沢栄一は大損するわけですが、それでもここで言い争っても日本の国際信用は地に落ちているし、日本を経済的に分断しちゃうからということで、日本全体のことを考えて、怒りの矛を納めます。
実際、日銀が信用を得たのは、日銀の財布の紐を握る仕事に渋沢栄一が就任したからだというくらいでしたから、ホント何で今まで日本史で出てこなかったのか不思議なくらい渋沢栄一は凄い人です。
ここから渋沢栄一による日本全国の統一がされます。
まず、地域差があった長さや重さを統一します。
次に暦を太陽暦から今のグレゴリオ暦にして海外(欧米)に合わせて貿易しやすくしました。
廃藩置県をする際には、各藩の借金とか収支をどう振り直すかも渋沢栄一が最終決定しました。
これたった3年半で全てやり遂げたのですから恐ろしいほど有能です。
その後は明治政府の大蔵省(今の財務省)以外は金勘定が全然出来なくて、なければ借金するかお金を刷ればいいという、あれ今の政治にもあてはまるのでは?みたいなダメダメ政権だったので、こいつらじゃ日本経済は成長できないと、渋沢栄一は政権を離脱します。
明治政府がお金の正しい使い道を知らなかった結果、日本は現代まで政治は三流、技術(民間企業)は一流と言われるようになり、民間企業を500社以上設立した渋沢栄一が関わった方が一流になったという結果になっていたりします。
そんな渋沢栄一は実は女性関係も凄かったようです。
妻と愛人が同居したり、そもそも愛人の人数も自分の子供も何人いるのか正確には覚えていませんでした。
(20~50人とか幅広すぎ、犬じゃないんだぞ)
更には70歳でも愛人を妊娠させるという性欲旺盛で、血の繋がりのない子供も認知していたと言われています。
孤児院作ったりもしているから、ね?
あ、愛人の子でも認知したら英才教育させており、例えばIHIの社長とか、みずほ銀行の取締役、東大の教授にもなっていたりします。
そう思うと、有能な人材を赤子から育てたと言える?