栗林あや(いがぐりこ)です。
母が介護施設に入居して、
これまで40年以上住んでいた団地を片付ける作業に追われています。
今日は、家財処分の回収業者さんが来てくれる日。
ついに母の団地の家財処分が完了しました!
この築約50年の団地は、
昭和の鉄筋コンクリート特有のカビで、壁がひどい状態になっていました。
業者さんには本当に感謝しています。
これは、わたしひとりではとてもできない作業でした。
残すは少しの掃除と、月末に鍵を返却するだけです。
40年間、この団地でお世話になりました。
私が育ったこの市営団地は、高度経済成長の後に作られたもので、
当時は最先端でとても人気があり、母と父も順番待ちに当選して入居できたそうです。
私が子供の頃は、子供たちがたくさんいて、
上の階や隣の列にもたくさんの友達がいました。
巨大な団地群でした。
私が通っていた小学校もマンモス校で、たくさんの子供たちが通っていました。
近所も賑わっていて、当時は商店街が2つもありました。
夏には夏祭りが各町内で開かれて、秋には運動会。
大人たちは団地の空き地にゴザを敷いて、料理やお酒を持ち寄って宴会をしていました。
そういった行事が楽しみでした。
しかし今はもうすっかり、この団地群は寂れてしまっています。
ほとんどの部屋が空き部屋で、母が住んでいた棟も住んでる人はわずかです。
私のように、どの家も子供たちは成人して出て行き、
残されたのは年配の方々と、外国人の労働者の方々です。
家財処分は、業者さんが1日掛かりで作業してくれました。
わたしは外出していて良いとのことだったので、
子どもの頃の思い出の場所を車で巡ってみました。
賑やかだった商店街は壊滅的で、ほとんどが更地になってしまっていました。
かつて子供たちが集まった夏祭りの公園も寂れてしまっています。
たくさんあった遊具は、安全上の問題なのか全て撤去されて、何も無い空き地になっていました。
私が通っていたエレクトーン教室や、母とエレクトーンの前に時間を潰した喫茶店、同級生のおばあちゃんがやっていたお好み焼き屋さん、駄菓子屋さん、
通うのが怖かった歯医者さん、イヤイヤ通って結局やめてしまったそろばん塾など、
昔の思い出の場所はすべて潰れてしまい、跡形もなく姿を消してしまいました。
私が通った幼稚園も小学校も廃校になっていて、建物だけが廃墟のように残っていました。
思い出の場所を訪れ、しばらくノスタルジーに浸っていました。
その後、時間を過ごして、先ほど業者さんから作業終了の連絡がありました。
本当に自分ひとりでは無理だったと感じます。
以前のブログ記事でも書いた通り、
実家じまいにおいて最もつらいのは、家族の思い出の品を処分することです。
写真や書類、思い出の品には背景が詰まっていて、心がいっぱいになるものです。
私自身、母との関係が複雑で、いわゆる「毒親」と呼ばれる母の存在でしたが、それでも母の思い出の品には心が引っ張られる気持ちがありました。
残されたひとつひとつの品に、母の人生みたいなものを感じ取ってしまうのです。
思えば幼い頃から、娘としての「責任」を感じて、無意識のうちにそれを背負ってきたのかもしれません。
その責任感を背負ってしまっているからこそ、母のルーツに繋がっている思い出の品に、心が揺さぶられるのだと思います。
なので今回、私は業者さんにお願いできて、本当に良かったです。
わたしは残された家財道具から、必要なものだけ引き抜いて、
残りは母のルーツに思い入れの無い、第三者に処分してもらうのが、得策だと思いました。
結果、大正解でした。
今日で山場は乗り越えました。(たぶん、、、)
あとは少しの掃除をして、月末に部屋の鍵を返却すれば完了です。
この団地は過疎化が進み、今後は新たな入居者は入れないそうです。
居住者が引っ越していくのを待っている団地です。
将来、取り壊されるであろう頑丈な鉄筋コンクリートの建物が、すっからかんの部屋となっている光景を見て、
子供時代の私が、まだここで走り回っているかのような錯覚を覚えました。
こんな場所が、座敷わらしの出る心霊スポットになるんだろうか、、、(笑)
とりあえず頑張りました。
業者さんにほんと感謝です。
夕食を食べて帰ることにします。