わが道をゆく

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☆ 自己研鑽のために、男性も仕事も髪もすべて捨ててみました ☆

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私の兄、親族は今回の東北地震において被災しました。


私に何かできる事はないかと考えていたおり、こんな記事を目にしました。




被災地でのボランティアや、


物資を送りたいと考えている方がいらっしゃいましたら、


以下の抜粋記事を是非参考になさっていただきたいと思います。






阪神大震災で被災された経験がある、西宮市議会議員・今村岳司さんのブログ3月13日の記事より。



長文になりますが、一部ご紹介したいと思います。


「悔しくて、悔しすぎて、記憶から消していたことが、いろいろ蘇ってきて辛いです。


ひとつは、観光気分で来た自分探しボランティアの連中のこと


彼らは、人から感謝されることを楽しみにやってきただけでした。


だから、汚れ仕事やしんどい仕事は何かと言い訳しながらやりませんでした。


彼らで集まって楽しそうに親睦を深め合っていました。




そんな彼らに『惨めな被災者』と扱われる屈辱。


何日か経ったとき、避難所のリーダーが耐えきれずに怒鳴り散らして彼らを追い返してくれました。


彼らがいなくなっても、彼らに受けた屈辱は消えませんでした。
 



とにかく、自分にできることなど何もないことを受け容れることが必要です。


「何かしよう」という気持ちが、本当に自己満足ではないのか、よくよく考えるべきです。



政府の大規模な財政出動に理解を示すこと、


増税を受け容れること、節電など、


政府の呼びかけに応じて、不便を受け容れること


被災者の苛立ちや要望をただ受け容れること、


プロが呼びかけるボランティアや募金に参加すること。


これくらいが関の山なのです。



被災経験のあるあなたに訊きたいが、被災地に対して何かできることはないか』と友人に訊かれたので、こう答えました。



まずは、呼ばれでもしないかぎり、絶対に被災地に行かないことです




被災地から出ようとする人、


入ろうとする支援部隊や家族でアクセスはただでさえ大混乱。


非常に邪魔です。




統制もとられておらず


装備もなく訓練も受けていない『ボランティア』はただの野次馬観光客です。


何の役にも立ちません。




自衛隊は、

食糧から水から燃料から寝具から、

全て自前で用意して出動します。



しかし手ぶらのボランティアは、

被災者が食うべきものを食い、

被災者が飲むべき水を飲み、

被災者が寝るべきところで寝るのです。



完全に現場指揮に従うのであれば、


しかも生き地獄での救援活動に耐えうる技術と精神力を備えているのであれば、


行ってこればいいと思います。






次に、要請されないかぎり何も送らないことです


何が不足しているかもわからずに送られてくるものは、千羽鶴と同じゴミです。


『着るものがないだろう』とボロを送られても馬鹿にされたと思うだけです。


水もガスもないところにカップ麺を送られても意味ありません。


現場に何が必要かを理解しているのは現場のプロだけです。




『○が不足しているのでどこに送って欲しい』


という呼びかけに応えるのであれば、ぜひ送ればいいともいます。





要はプロに任せることです





6年前、遠くのまちの名前が書かれた消防車やパトカー、


そしてなにより規律正しい自衛隊が来てくれたときには、


ほんとうに嬉しかったです。





彼らは、これまでに見たどんな人間より気高かったです。


彼らはプロとしての技術を持っていましたし、


彼らは私たちに感謝されることなど求めていませんでした


被災地に必要なのは、プロだけです




情熱だけで赴くボランティアは、足手まといになるだけではなく、


被災者の心にさらに負荷をかけてしまうようです。




今回の被災者に話を聞くと、


上記に書いてあるように、


ボランティアは「感謝されたい」という気持ちが土台にあり、


被災者から少しでもきつい態度をとられると、


不機嫌になったりするそうです。




この状況で、


被災者の精神が安定しているはずがありません。


ボランティアを志願している人は、


被災者に怒鳴られたり、ぞんざいな態度をとられることなど


微塵も考えていないようです。




私はもうブログはやめると決めていましたが、


「被災者にむけてできること」


それは、被災経験者の情報から、


被災地において求められる、真に必要かつ正確な行動をとり、


その情報を伝えることもその一つだと思い、


今こうしてキーを打っています。






今、被災者の方は


失意と混乱の中にも


気を張っている方も多く、


世間の方も同情し、支援してくれます。



しかし、あと1,2ヶ月もすれば、


徐々にこの惨憺たる事実は、


世間から忘れられていくでしょう。




そして時間の経過と共に、


被災者の悲しみや不安は深まっていくでしょう。




被災者は、これからが本当の戦いなのです。





物心共に、まだまだ試練は続きます。



一ミリでもその試練を短縮することができるのならば、


私たちは今、


「 真に求められることだけ 」をしなければなりません。





心配してメールくださった方、ありがとうございました。



私は何とか生きています。


毎日余震が続く東京においても、底なしの不安に陥っている方も多いと思います。


それを反映するように、スーパーや、コンビニの陳列棚はガラガラ。


地震による配送の遅延や、中断による事由のみならず、


買いだめによる影響も大きいと思います。





チェーンメールがきたり、情報に翻弄され、


東京を脱出した人もいるようです。




チェーンメールが来たときは、


不確かな感じを受けたので、


ネットで検索かけたらやはりガセでした。





「関東は危ないから東京脱出を考えていますが、


クラコサンの直感(霊感)ではどう感じていますか?」


と、知人から電話がきました。



私はこう答えました。




「自分で考えてください」






私は、


関東が危ないかどうかなんてわからないし


知りたいとも思っていません。





ただ確実に言えることは、


どこにいても死ぬ人は死ぬし、生きる人は生きるという事です。






福島と宮城で兄や親類縁者が被災し、家族は皆関東にいます。


疑問符が残る情報に翻弄された行動をとりたくはない。




私の兄は被災地にて教員をしており、


他県に移動した同僚もいたらしく、


兄のメールにはこうありました。





「今後が不安で自分も被災地から脱出したいけれども、


自分の生徒や地域を見捨てるようで良心がとがめる。


教え子は呆れるほどの学力の低さだが、


皆いい子ばかりで、


自分だけ逃げるわけにはいかない」




私を含め家族は東京にいます。


兄が被災地を離れて、


家族がいる東京へ避難することは簡単です。



でも、彼は被災地にとどまることを選んだ。



普段あまり連絡をよこさない兄なのに、


メールが一日何通も来て、


かなりの精神的ダメージがうかがえます。





様々な葛藤を抱える兄や親類が被災地にいるというのに、


自分だけのうのうと逃げる事だけはすまい、と心に決めました。






もしかしたら、東京も本当に危ないかもしれない。


でも、家族が関東にいる限り、私はここにいようと思っています。








重複しますが、


人は、死ぬときは死ぬのです。


そして、誰もがいつか必ず死を迎えます。


死なない人などいません。








多くのネガティブな情報が蔓延していますが、



いたずらに死を恐れて理性を失わないようにしてください。


必要以上の死の恐れから混乱し、


最悪の事態を招く可能性が大いにあります。



大事の際に最も必要とされる事は、平静さと理性です



情報に翻弄されず、今、できることを考えていきたい。






私が今できることは、


無駄な買いだめをしないこと。


電気を節約すること。


チェーンメールを回さないこと。


不確かなネガティブな情報を流さないこと。




この記事をお読み下さった関東、東北在住の方、そして他県の方、


今回の地震のダメージにおいて、


「今できること」をしていきましょう。



今日をもちまして、アメブロでのブログを終わりにしたいと思います。


ブログの引越し先が決まり、そちらで書くことにしました。


( 引越し先といっても、今までのアメブロの記事の移送方法がわからず、

しばらくの間、今までの記事はそのままこちらに上げていますが ショック! )








アメブロは非常に使いやすかったのですが、やめる理由として、


心身共に悪影響を及ぼす、アメブロならではの、とある事由がありました。


それを人に言えば 「そんなの気のせい」 といわれるかもしれません。







しかし、精神世界に身を置く者として


なおかつ電波や思念に敏感であることを自負する私は、


その理由に確信を持っています。






もちろん、その悪影響が及ぼされるというのは、アメブロ利用者全員ではなく、


私に限ったことかもしれません。






ただ、感受性の強い人、憑依体質の人、影響されやすい人、


パソコンや携帯を10分以上使用し続けると


体に変調をきたしたり、たった数分の使用で体に異変を感じる人・・・・・。




・・・・・そのような人は、アメ-バをはじめとした、


芸能人の住人が多いブログサイトや


ランキングを設けている・利用者が多い・ミーハーな感じのブログサイトの利用、


また、チャットや、


ピグなどのキャラクターを用いたチャットは避けたほうがいいかもしれません。










こちらで仲良くさせていただいた方、貴重な情報を下さった方、


本当にありがとうございました。





これからは、だ~れも知らないような、


メジャーではないブログサイトで、


ひっそ~り 地味~ に書いていきたいと思っていますので、 


ご連絡いただいた方にのみ、移転先をお伝えしたいと思っています音譜






タイトルにあるナチュラルセルフは、『 本当の自分 』 と和訳されます。


私の会社も、ナチュラルセルフと名付けました。










                           皆さん一人ひとりが


                           本当の自分に気づき


                            本当の自分を知り


                       本当の自分を生きられますように






わが道をゆく





わが道をゆく







私の友人に、不思議な体験をした人がいる。

たまたまテレビをつけたらイエス・キリストの映画が放送されていて、

ストーリーなど何もわからないのに、

その映画の中のイエスを目にしたとたん、大泣きしてしまったというのだ。




ブラウン管の向こうのイエスを目にし、

イエスの名を耳にしたとたん、

涙が止まらず、その上、泣き叫んだらしい。



        「 僕が見殺しにしてしまったんだよ~!!! 」


・・・・・・・・・・と。友人は、女性だ。

自分でもわけがわからなかったらしい。

彼女は、イエスには全く興味がない人だ。





以前、その彼女が通っている禅道場に、彼女と1泊2日で参加したことがある。

彼女はその日、夜中じゅう狂ったように大泣きしていた。





私たちは2階で寝ていたのだが、

彼女は私に気をつかって

一階に降りて声を殺して泣いているようだった。








一階から、激しい感情に突き動かされるように、

声を押し殺しながらも、抑えようのない激しい泣き声が聞こえてくる。

・・・・・・・・・絶叫に似た嗚咽。


私はその時、理由を知らなかったので、「 何か辛いことを思い出しているのかな 」

くらいにしか思わなかった。







明くる日、彼女から泣いた理由を聞いた。

大きな広場にイエスがいて、何十人もの人が

イエスの説法を聞いている場面が見えたのだと言う。

このときもまた、

「 見殺しにしてしまった 」という罪の意識で涙が止まらなかったらしい。










単なる空想や想像だけでは、あんなふうに人は泣けない。

彼女はきっと、前世でイエスと関わりを持っていたのだろう。

その記憶が、よみがえったのだ。






私は正式なクリスチャンではない。

聖書の全てを信用しないし、洗礼も受けていない。

イエスを愛しているが、私の行っている瞑想は仏陀の教えだ。









2年半前、初めて「預言カフェ」というところに行った。




ここは敬虔なプロテスタントのクリスチャンが経営していて、

お客一人ひとりに「キリストからの個人的な預言」が5分ほど受けられる。





私は近所ということもあって、何度も足を運んでいる。

この店はいろいろな批判や中傷も受けているようだが、

誰にも言っていないことや、自分のことは何一つ話していないのに、
現状ををズバズバと言い当てられる。



私が足しげく通ったのは、行くと前向きになれたからだ。

預言は<予言>ではなく、神からの「預かり言葉」としての<預言>。

客はその預言を一方的に聞くだけだ。

しかし、語られる言葉は本当に美しい。





私はいろいろ言われる預言の中で、

「 あなたは私を愛し、私の真理の中で生き、私と共に生き、

  日本だけではなく、多くの国において私の愛と栄光を表し、伝えていく者となるでしょう 」


・・・・・というようなことを毎回伝えられた。




私はその頃

イエスを信じるどころか、

イエスはイタリア人だと思っていたほど何の知識もなく、

また、全く興味がなかった。



そして、

カフェはクリスチャンが経営しているから、

伝道や信者獲得のためにそのような事を言っているのかと思っていた。




しかし、

私はここに数人の友人や家族を伴って行ったのだが、

他の誰も、そのような事は言われていなかった。





私は預言通り、日に日にイエスを愛するようになっていった。
















        人は皆、他者を傷つけ、自分を傷つけた経験を持つ。

          知ってか知らずか、人や自分を裏切り、

       過去においての深い後悔、取り消すことのできない罪、

       取り戻すことのできない過去を背負って生きる。











私も例に漏れず、多くの人を傷つけた経験を持つ。

物欲のために多くの嘘をつき、人の心をもてあそんできた。








私は、イエスを信じるようになってから、

自分の中で多くのことが塗り替えられ、刷新されていった。













                キリストとは、

            イエス・キリストのことであり、

            イエス・キリストのことではない。






                キリストとは、

                 真理であり、
                 
                 愛であり、

                 調和であり、

                 福徳であり、

             偽証のない心と行いのことである。

         イエス・キリストという特定した個人ではないのだ。







キリストに出会う道は、人によって異なるだろう。


ある人は仏教で

ある人は神道で

ある人は教会で

ある人は神社で

ある人は家族で

ある人は恋人で

ある人は友人で

ある人は動物で

ある人は瞑想で

ある人は本で

ある人は映画で


・・・・・・・・キリストの道、
        
        すなわち真理の道への入り口は、十人十色、さまざまだ。



       私は、キリストへの道が、仏陀であり、イエスだった。









映画「パッション」からのシーン。

残酷な拷問シーンに耐え切れず、

映画館で死者が出たほどの衝撃映像だ。





拷問は、もちろん、私たちの想像を絶する痛みだ。

しかし、イエスは、肉体の痛み以上に、

無知なる者への心を痛んだのだ。





 「 切り裂かれる私を見よ。あなたの罪への痛みを、
          
           あなたの無知なる痛みをすべて
                   
                     私が引き受け、
                  
                私によって塗り替えて見せよう 」


・・・・・・・・彼はそう言っていたのではないだろうか?








キリスト教は、

「 人間の罪をイエスが背負ってくれる 」と言う。




洗礼を受け、

イエスを信じたクリスチャンになれば、どんな罪でも許され、

ザンゲをすれば、罪は償われると。

イエス・キリストその人を信じれば、< 誰でも >天国にいけると言う。




しかし、それならば、クリスチャンになってザンゲをすれば、

何をしてもいい、ということになる。











         それは事実と違えることを私は経験から知っている。

                <因果応報>

              <蒔いた種は刈り取る>



・・・・・自分がしたことは、必ず返ってくるのだ。




しかし、イエスは、私の「 罪への心の痛み 」を、

あなたの「 後悔の心 」を、背負ってくれるのだと思う。

要するに、心の傷を< 癒して >くれるのだ。

決して罪を< 帳消し >にしてくれはしない。





前述した彼女に、この映像を見てもらった。


すると彼女は、

「 この拷問は、決してフィクションではないよ。
           これと全く同じく、残酷で、残忍だった 」


・・・・・と断言していた。

その言葉は、目の前に起こる現象を語るように、確信に満ちていた。

前世で彼女は、イエスの磔を目の当たりにした人なのだと思う。












           私には、どうしても消せない十字架がある。

            一生背負わなければならない十字架が。

            その罪は消えないし、消してはならない。

           そしてあがなえない。未だ後悔は消えない。











しかし、イエスに出会い、

キリストのうちに生きていくことで、

その「 罪への痛み 」は軽減され続けている。





          地上に生きる全ての人間の中にキリストが存在している。

       重複するが、キリストとはイエスという個人のことではない。





イエスを残虐に打ちのめした拷問者の内にも、キリストがいる。

心の片隅に、ひそやかにたたずむキリストの存在を、知らなかっただけだ。

彼らはただただ、無知だったのだ。

















イエス・キリストは言った。



「私は飢え、渇く」と。





ここで言う飢えとは、空腹ではない。

渇きとは、のどの渇きではない。

誰もが切望する愛情のことをさしているのだ。





多くの人々に愛されていた彼の、

その言葉に矛盾を感じる人もいるだろう。




しかし、ここで言う彼の飢えと渇きとは、

彼自身が愛に飢えている事ではないのだ。




多くの貧しき人、

多くの傷ついた者たちが欲して止まない愛への飢えと渇き、

そして

世間で繰り広げられる、

人々の愛のない行為、

互いに愛し合う人々の愛に対しての飢えと乾きなのだ。

彼自身が飢え渇き、愛を欲しているのではない。







イエスは自分というパーソナリティーを持ちながらも、

すべての人の中に自分を見つけていた。







この世に生きるすべての人は神の子であり、

家族であり、他人ではなく、自分である、と。


すべての人の中に神を探し、見出していた。


他者を、自分以外の人間ではなく、自分自身としていた。

彼にとって、他者の痛みは、自分の痛みなのだ。







私は、ほんの少しでも、
こんな風に生きることができるだろうか?




彼のような深い愛は、生涯もてないだろう。



しかし、誰もが皆、大きさや深さは違えど、愛というものを持っている。


今はホコリが積もって見えないかもしれない。


険しく奥深い森のように、遠い場所に存在しているかもしれない。


砂の粒のように小さいかもしれない。


・・・・・だが、愛とは、すべての人の心の中に、確実に存在している。




私も、そしてあなたも。













ムチ打たれ

石を投げられ

唾を吐かれ

侮辱され

辱めを受け

濡れ衣を着せられても、


怒ることなく、

逃げることなく、

はむかうことなく

「 無知なる者よ 」と言った人。




痛んで、痛んで、槍を突かれて、痛みの中で死んだ。

その痛みは、肉体の痛みじゃない。

その痛みは、イエス本人の痛みじゃない、




ムチ打つ者、石を投げる者、侮蔑の言葉を投げる者の痛みなのだ。


・・・・・・イエスを傷つけた彼らの痛み。

それは、本当の愛を知らない痛み。




イエスに石を投げるのは、石を投げる本人が、深く傷ついているからだ。

愛を知っている者は、人を傷つけない。


<キリスト>から遠ざかれば遠ざかるほど、

人は他人を、そして自分を傷つけていく。






・・・・・・イエス・キリスト。

その人は、

無知なる者の全ての痛みを引き受け

人類を救済するために

真実の愛を伝えるために

自ら十字架にかけられた、愛と慈悲の人。


I Love Jesus.


出発の31日の沖縄は台風で、荒れに荒れていた。


もしかしたら欠航で行けないかもしれない、と不安に思いつつ、空港に向かった。




宮古行きを勧め、また手配してくれた友人に



「 クラコは人間不信を直さなければ人は救えないよ。


そして宮古へ行くことが大きな人生の転機となる 」と言われていた。






私は心の奥底に、人間不信という枷があった。








「 クラコを宮古が呼んでいる。自信を持っていきなさい 」とも言われた。



何をオーバーな、と思ったが、確かに



私が乗った沖縄行きの飛行機の2便後は全て欠航となり、



沖縄はすごい台風なのに、



空港に着けば思いっきり晴れていたし、風すらなかった。




観光は一日しかできなかったが、



どんなに厚い雲が広がっていても、雨が降っていようとも、



行くところ行くところ全て晴れた。





人生で虹は一度しか見たことがなかったが、



宮古でダブルの虹を見た。





海に入れば一匹の魚が私の後をずっとついてまわって、



波のない砂浜まで乗り上げて別れを惜しんでくれた。










宮古は神々の島と呼ばれる。







ここでは、霊的感性がある人は、これまでのカルマの相殺を求められる場所だと感じた。




要するに、宮古に来ると、まず最初にいやな出来事が起きやすいのだ。




しかしそれは、今まで自分が蒔いてきた悪い種、過ち、

又は、逆に大事な事に気づかせようとする出来事や、

カルマの相殺のチャンスを与えられる場所なのだ。



私もまた、そうだった。空港に降り立ったとたん、大泣きすることがおきた。













ここは、志高い人に対して、必ず導きの手が差し伸べられる場所だと感じた。







                     不思議な島だった。





雲で覆われた空に向かって、「雲を流して、晴れた空を見せてください」

とつぶやくと、すーっと雲が流れて、空が晴れた。


雨が降っていても、お願いすると瞬時に空は晴れた。






                 ここは、生き方が問われる場所だ。







神を敬い、まっすぐな生き方をしている人は、幸せを存分に享受できるのだと。

逆に、悪想念を抱いている人にとっては、生き辛い場所だろう。








私は普段、西洋占星術という占いを用いて人を視ていくのだが、


宮古行きを勧め、またすべてを手配してくれた友人には、


「 パソコンも何も持って行かないでね.。今回は占星術は必要ないの。


あなたの感じたままを伝えてあげて 」と言われた。



占星術はパソコンを用いる。


占星術なしに人を視ていくことは、新たな挑戦となる。





不安だった。





自分にはできない、と緊張でいっぱいだった。


しかし、そんなことは言っていられなかった。


何人も断るほど、予約で一杯だったからだ。





5日で40人弱の人を視た。昼からはじまって、休む暇なく人が来る。



自信がないなど言っている暇がなかった。



私は今までお金をとらずに勉強という形で人を視ていたが、



もう、勉強ではなく、これからは仕事としていく。








宮古の人は本当に純粋だ。


純粋であるがゆえに、傷つきやすい。




東京では


「 いつ、結婚できるのか。


どうしたら金持ちと結婚できるのか。


どうしたら金持ちになれるのか。


どうしたら成功するのか 」という相談が主流だった。





宮古では


「 どうしたら人の役に立てられるのか。


どうしたら人とうまくやっていけるのか。


どうしたら優しくなれるのか。


どうしたら自分自身が満足できるのか 」という相談ばかりだった。




そして宮古の人は本当に暖かい。



かたくなな私の心が溶けていく。



世の中に、こんなに暖かい人たちが存在するんだ、と驚いた。







私は今まで、いろんな人にいろんなことを言われてきた。


「 あなたは将来、大きなことをしていきますが、


しかしそれをするには


人の愛情を受けなければなりません。


愛情が全てを解決するのです 」



私はその意味が頭ではわかっていたが、


腹に落ちていなかった。







                         愛情が全てを解決する。


                  その言葉は、私だけの言葉ではないと思う。



                      全ての人間に共通することなのだ。








人を愛する。


・・・・それは簡単に抱ける感情のようでいて、実は非常に難しいことだ。


でも、それより自分を愛することはもっと難しい。


そして愛情を受けることもまた、難しいことだ。








宮古で、不感症の人に会った。


不感症と言っても、性的な事ではなく、泣くことすらできないほど心が傷ついている人だ。


何も感じない。泣けない、笑えない。心の感度が鈍っているのだ。






もう何年も泣いてない人だった。


私はその人を見つめていたら、泣いてしまった。


自分自身は何も悲しくなかった。


しかし、


何にも感じないまでになってしまった彼女の今日までの魂の苦しみや悲しみが、


私の心に深く伝わってきたのだ。






そして彼女もまた、泣いていた。


泣いている彼女を見て、周りの人が驚いていた。





私は嬉しかった。


つたない私の言葉で、岩のような心が少しでも溶けていくのなら、


こんなに嬉しいことはない。


私はその人に対し、短い時間で精一杯の愛情を示す努力をした。







・・・・・もう二度と会えないかもしれない。


後悔することなく、今一緒にいるこの時間に、全身全霊を賭けてこの人を愛そう。


理解してもらわなくてもいい。この人の心に寄り添いたい。



私の想いが伝わったのだ。本当に嬉しかった。










                私は宮古に来て実感したことがある。



                苦悩と幸せは共存しないということ。



 そして、 どんなにお金があっても、物があっても、愛情が存在しない場所には、幸せは存在しないと。



            そんなことは月並みに言われる陳腐な言葉かもしれない。



                       しかし、それは真実だ。





わが道をゆく


わが道をゆく


















ヒロシ君



先日はごちそうさまでした。

ブログみてくれてありがとう。

以前メールをくれた時間が明け方だったので、

もしやずっと読んでくれていたのでは・・・・

と、勝手な解釈をしています。




ヒロシ君が受賞した賞、ウィキペディアでみました。

日本人は、過去1人しかいませんね。

電子界のノーベル賞にあたる、と書いてありました。

本当に素晴らしいことです。



10月を過ぎた受賞後に、2010年の受賞者として、ウィキにも名前が載りますね。

楽しみにしています。



余談ですが、以前話した人形は、手に入れましたw

お祝いのプレゼント、
私もちゃんとご用意させていただきますね。






私はあなたの中に、深い深い孤独を見ました。


あなたもまた、人からの理解を得られずに、暗いところを通ってきたと思います。



しかし、誰に迎合することなく、

自分の信念のもとに走り続けてきたことは、

この受賞の栄誉と同等の賞賛に値することです。


日本人が誇れるこの賞は、

その孤独がなければ受賞することができなかったでしょう。




私がなぜ、ヒロシ君とお付き合いさせていただいているかというと、

あなたの中に強い信念と深い孤独を見たからです。




あなたは、私をいつも美しいとほめてくれますね。


あなたは

私の外見をほめているつもりでしょうが、それは違います。



あなたの中にある孤独、あなたの信念を私の中に見出して、

                       その部分を美しいと言っているのです。




宏君の憂いを含んだ信念と孤独を、私も同じく美しいと思っています。







あなたは、

隠居して

縁側でお茶をすすって

のんびり夕日を眺めるような日常を送ることなどできません。





あなたの原動力は、仕事です。

あなたから仕事を取ったら、アイデンティティを喪失したように感じて、

抜け殻のようになるでしょう。






あなたなら、できます。

それは私が保証します。




     あなたは、日本人の誇りなのです




あなたが働き続けることは、世の中に貢献することにつながるのですよ。


あなたのためだけじゃないんです。





投資でも、リスクのないリターンなんて何一つありません。

恐れないで下さい。




もう一度言います。

あなたが続けることは、あなたのためだけではないのです。

日本のため、世界のためでもあるのです。

そのことを知ってください。




宝石紫宝石白宝石紫


河野ちゃん


先日はごちそうさまでした。




あのお茶、おいしかったです。

棚も参考にさせていただきます。

ラスク、バリバリ食べちゃってごめんねw


引越しの儀式の時に行ったときには感じなかったのに、

部屋が広く感じて驚いたよ。






私は、あなたに言いました。



             自分と人を比べない精神が、寛容さを育てると。
  





そしてもっと大事な事は、

自分の周りの人を自分の所有物のように思わないことです。


付き合いの長さで、

相手の全てを知っている、知りたい、と思うことは、傲慢です。



家族には言えないけど友人には言えることがありますね?

また、その逆もあります。


家族にも友人にも言えないことを、彼氏には言える、
また
その逆もあり、


そして、
家族や友人、彼氏にも言えないことを、

他の誰かになら言えることもある。



そのように、

人は接する相手によって、話すことを変え、選んでいるのです。










            人には誰にも犯されたくない領域があります。





そこに踏み込んでいこうとするのは、

相手を傷つけることにつながります。




人は、

家族しか知らない自分

恋人しか知らない自分

友人しか知らない自分

自分しか知らない自分

そして、

他人も自分も知らない自分が存在しています。




                 人間は、多面体なのです。




誰かの全てを知ることなんて、不可能です。

なぜなら、自分でさえ、自分のことを知らないことがあるのですから。




           あなたが友人には言えないことがあるのなら、
          あなたの友人もまた、あなたに言えないことがあります。



それは家族も、恋人も、みな同じです。

それは全ての人に共通することなのです。





自分には全て話してほしい、と思うのは、依存です。

頼られたり、信頼されていたい、と思う気持ちが依存になっているのです。















             裁くな、人に裁かれぬため


・・・・・・・・・・キリストの言葉です。

これは真理です。




つい最近まで人を裁いていた私は、人に裁かれました。





               仏陀の言う < 因果応報 >

             キリストの言う < 蒔いた種は刈り取る >

         自分がしたことは、いいことも悪いことも必ず自分に返ってくる。




      人種差別・職業の貴賤を肯定するあなたは、
               いつの日か、人から選り分けられる日がくるでしょう。



           それは、逃れられないこの宇宙の法則だからです。






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未来ちゃん


未来ちゃんは「 受ける 」ばかりで具合が悪くなっていたけど、

よく考えてみて。


歩けなくなるくらい「 受ける 」なら、

それをひっくり返せば「 送る・伝える 」

こともできるんです。


すごいエネルギーを送ることができるということです。


だから、大きなことができるよ。



               普通の人にはできないことがね。




では、帰宅したら連絡しますね~。



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たまたま見つけた動画。

涙が止まらなかった。

かわいそうという感情じゃない。



これだけムチ打たれ

侮辱され

辱めを受け

濡れ衣を着せられても、



逃げることなく、

はむかうことなく

「 無知なる者よ 」と言った人。




痛んで、痛んで、槍を突かれて、痛みの中で死んだ。

その痛みは、肉体の痛みじゃない。

その痛みは、イエス本人の痛みじゃない、

ムチ打つ彼らの痛みなのだ。




無知なる者の全ての痛みを引き受けた人。




聖なる人

愛する人

I love Jesus.






       I love you than anyone.


He was wounded for our transgressions,

crushed for our iniquities, by His wounds we are healed.

I love you.



以前、私が瞑想をしているときに

        ハッキリと聞こえた言葉があります。





それは






 決意なくして道は開けず

          信念なくして道は歩けず







・・・・・・・・・・・・という言葉です。





誰が言ったのかは、わかりません。






神様なのか

守護霊なのか

自分なのか、

もしかしたら、ただの気のせいかもしれないし、

もしかしたら、悪霊かもしれない。





出どころはさっぱりわからない。






でもそんなことは、私にとってはどうでもいいことです。


なぜなら



     <誰が言ったか>ではなくて、<何を言っているのか>が大事だからです。




川に浮かべた木の葉のように、

流されるように生きるのも、また道です。

ひとの生き方は、十人十色で、一人ひとりが違います。

誰かと同じ人生なんて、ただのひとつも存在しません。







私が目指す人生は

固い決意と信念が必要です。






自分の生き方において

誰かの評価や理解を求めることはしない。





自分の目指す場所に誠実に歩いていくだけです。





その時、評価や理解が副産物として附随してくるかもしれません。




しかし、評価や理解を

優先順位の中で一番にしてしまうことは、本末転倒です。

それらを目的にして生きるのならば、

本来の目的からそれた人生となってしまうでしょう。





この声を聞いてから

この言葉が 私の座右の銘となりました。













I'm sorry.

Thank you.

Plesse forgive me.

I love you.

 裏のないコイン、陰のない光がないように、


 物事は全て、表と裏、光と影、陰と陽という対極の存在で成り立っています。




                 プラスとマイナスというのは全てセットなのです。



 





 人は皆、お金 ¥ 恋人ラブラブ住居 家 評価、友人・・・・。


 何でもかんでもほしがります。




  しかし、努力なしで手に入れた「 プラス 」は、


 それに応じた「 マイナス 」が必ず発生することを知っておくと良いと思います。


 



 宝くじで大当たりお金お金お金 した人は、お金では解決できない問題が生じます。


 5千万円宝くじで当てた人を知っていますが、


 人に騙され、人間不信になっていました。




 プラスとマイナスの法則を如実に表しているものに、


 新築の家( 一軒家 )の購入があります。



 私は新築の家を購入した人を観察していますが、


 その多くが


 大体5年以内に離婚、病気、家庭内暴力、事故、身内の死別などが発生しています。






 芸能人を見てもよくわかります。


 新居購入後にビートたけしは事故、

 

 さんま、東野、リカコ、は離婚、

 

 西川峰子は天災で家が壊滅し、


 住居購入後に突如落ち目になった田原俊彦・・・・。


 もう、枚挙に暇がありません。

 




 家というのは、大きな「 プラス 」です。


 その家が立派であればあるほど付随する「 負 」も大きいのです。


 





 もちろんその先には家を持つための努力があるわけですが、


 新築の家は、努力ではまかないきれないほどの


 「 プラス 」です。








 ですから、昔の人は 「 建て前 」というのを行いました。


 新居が完成すると、道行く人にお餅 桜餅 や小銭、千円札¥などを振舞うのです。




 これはどういうことかというと、要はお金を蒔いて


 先に「 マイナス 」をつくっておき、


 後に生じるであろう大難を小難にする、という先人の知恵なのです。






 現代の人は建て前をしなくなりました。


 新居購入の際には、必ず神事をおこなって、


 建て前ができないのならば、どこかの団体に


 寄付をするとよいでしょう。




 信じられないのなら、周囲の人のデータを取るとよいと思います。




 大きい家を建てて、

 神事、建て前、寄付、など何も行わず、


 何の問題もなく5年間過ごしている人は少ないでしょう。







 この世は修行場なのです。


 何もかも手に入れることは、現世においてあまり意味がありません。




 さらに

 全てを努力なしで手に入れる事は、


 死の訪問が近づいていることを意味しています。



 後で大きな落とし穴にはまるか、天に召されることになるでしょう。






 小学生、中学生、高校、大学・・・・と、勉強が難しくなるように、


 魂のレベルが上級になるほど、厳しい試練があります。





 ですから、


 聖人と言われる人ほど、状況的には苦難と辛苦に満ちた人生を送っているのです。


 (本人たちは苦難とは感じていないようですが)








 

 

 人のコミュニケーションツールで大きな割合を占めているものに、



 < 言葉 >があります。




 人は言葉を使って愛を語り、意志を伝え、


 仕事においても、遊びにおいても、全て言葉が使用されます。




 言葉は、人間の根幹をなすものです。


 


 人の性格を決定づけるのは、行動だけではなく、この<言葉>も伴っています。


 性格のみならず、

 知性、教養、感性、嘘、誠意、、下心、生い立ち全てが言葉に表れます。








 

           言葉が人をつくり、世の中をつくっている


                                のです。





  人間は生涯を言葉の中で過ごします。


 




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 ネット上で、よく見かけるのが



 <死ね>を「 氏ね 」というような 言い換え・要は当て字です。


 



 頻度が高い当て字の言葉のひとつに



 「 行く → 逝く 」 という言葉があります。






 どんなに丁寧な言葉使いをしている人でも、この言葉を使用する人は、


 品格のある人とは言えないでしょう。






 真の教養と品格を持つ人は、そういう言葉を< 絶対に >使わないからです。





 社交を大事にする上流者と言われる人たちの中で、そのような表現を使用するならば、


 まず、次回のパーティーは確実に呼ばれないでしょう。







 

                 「 逝く 」ということは、死ぬ、ということです。









 「 では、逝ってきま~す 」 なんて気軽に使用しているようですが、


 「 では、死んできま~す ドクロ 」と言っているのと同じです。





 「 じゃあ、今から死んでくるね 」なんて冗談でも言えないし、

  

  まともな人だったら、そんなことを言う人とは、絶対に関わりを避けるでしょう。





 そんな言葉を仕事、恋人や伴侶の親に対して使用するものなら、


 まず、職場の人や相手の親に人格と生い立ちを疑われます。


 恋人ならば交際の反対に合うのは間違いありません。






 私はつい最近まで、ピグで遊んでいましたが、


 やめた理由に、


 言葉遣いが悪くなる上、


 言葉遣いの悪さが増長されることも大きな要因のひとつでした。




 

 ピグの中で


 「逝く」という言葉を頻繁に目にしており、そのたび、







                「 この人、どういう育てられ方をしたのだろうか 」




・・・・・・ と、自分の生い立ちは思いっきり棚に上げて、


                              そんなことを疑問に思ったものです。


 


 「 死んでくるね 」なんて、口が裂けてもいえない言葉だと思っているからです。


    

      < 逝く >という言葉を画面上で目にするたびにゾッとしていました。










 会話を面白くする為に、下劣で汚い言葉と表現を使う。



 そしてそれが当然になっていく。



 そうすると、日常の生活の中でも、

 


 品位のない言葉や表現を多用するようになってきました。





 そしてそういう事が染み付いてくると、



 以前は見向きもしなかった


 くだらないゴシップや、


 くだらない雑誌、番組( テレビを持たないので携帯のワンセグですがw )に興味がわいてくる。







          人格や興味の対象を変えてしまうほど、言葉が与える影響は大きいのです。








 先日記事にしたように、


 戦争についてブログで知り合った方とメールで意見を戦わせました。





 その際、お互いかなりヒートアップ メラメラ したのですが、


 相手の方は、絶対にそういう当て字や罵詈雑言は使用しませんでした。




 これが「 オマエ 」 「 死ね 」 「 クソ 」だのと汚い言葉を使用する人ならば、


 メールを削除して終わりです。



 話になりません。議論以前の問題です。




 要するに、



 大事な事を


 

 汚い言葉遣いや、



 荒げた口調で伝えようとしても、


 

 ハナから相手にされない、相手に届かないのです。


 


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  上品、下品、という言葉があります。


 これらの言葉はそもそも仏教用語で、


 魂の浄化の度合いを示すものです。


 霊界で魂は 


 ・ 上品( じょうぼん )

 ・ 中品( ちゅうぼん )

 ・ 下品(  げ ぼ ん )     

 

・・・・・・・・・と3つのランクに分けられています。


 修行を重ねて磨き上げられることによって、


 魂は下品から中品、上品へと格が上がっていくのです。






 では、上品とは何か。

 


 穏やかで人を思いやり、過信ではなく自信があり、謙虚であること。


 何事にもむさぼる様な言動をとらないこと。


 どんな事態になっても慌てず毅然と事実を受け入れること。


 自分と他者に惜しみない愛情があること。

 





 反対に、下品とは




 欲望と感情をむき出しにして卑しいこと。


 言葉使いの悪い事。


 遠慮や恥じらいを知らない事。


 自己主張ばかりして、相手によって態度を変える事。


 感情を爆発させて己を律することのできない事。






 魂が霊界から飛び出して、現世で肉体を持ったものが人間です。



 この世で修行をして上品に近づく為に、この世に生を受けたといえます。



 つまり、品位というのは、


 霊界においても、現世においても、魂の優劣を決定する絶対的な価値なのです。






 ですから、上品とは、人間の一生をかけて求めるべき、究極の境地です。






 では、上品な人間になるためには、どうすればよいのか。







 霊界での上品と現世での上品は変わりないでしょうが、




 現世で多くの人が錯覚を起こしがちな


 きれいな服 ワンピース を着ている、高貴な趣味を持っている、


 そのように目に見えるものではありません。




 きれいな言葉を使うこと。



 そして、不可欠なのは知性と知恵と自分の哲学。



 哲学と知恵は、知性がないと得ることができません。



 文学、芸術、医学、歴史、科学、


 どんなジャンルのものでも知識に関心を持ち、触れることで、

 

 人に品位を与えていきます。



 




偉そうに言ってる私は全くできていませんが、


 上記のことを実践しながら


 人としての品格を身に着けて生きたいと思っています。

 

 








  < 20世紀最大の奇跡の人 >と言われた、


                            眠れる預言者エドガーケイシーは、こう言っています。



 

 

          人は、自分の話した言葉と、必ず出会う

 


 

                                             ・・・・・・・・・・・・・・と。


 わが道をゆく


   人の悩みのなかで尽きないもののひとつに人間関係が挙げられます。



 


    その悩みの対象は家族、恋人、仕事関係など、人によってさまざまです。



    私は、

   

何かの専門分野に関すること以外は、

悩み事を人に相談するというのは滅多にありません。


 

    相談ではなく、報告です。

    または会話の話題として提供するくらいです。


 

    恋愛なども 「 どうしよう~ 」 といいながらも、

    心の中で答えはハッキリ決まっています。


 

  


      私には、人間関係の悩みというのは存在しません。

 

 

  もちろん、悲しみや怒りなどの感情はありますが、人間関係で悩むことがありません。





    なぜ悩まないかというと、

    傲慢なようですが、失って困る人間関係がないからです。



   恋人でも友人でも、頑なに守って維持したいとか、

   友人を増やしていきたいという気持ちがありません。


 



    だから、人間関係において問題が生じて、


    話し合って関係を改善できないようなら仕方ないし、

    

    追う必要もないと考えます。







             

                 来る者<選んで>去るもの追わず



  


・・・・・・・・・・・これを信条にしています。 




    






           先日、戦争と、憲法9条について記事を載せました。

         私は反戦派ですし、9条の堅持に賛同しています。



         その記事について、

         9条の改定・戦争を肯定する方から長文のメールを頂きました。

 

         しかし、その水と油の相容れない意見交換のなかで、

         お互いがヒートアップしている論調になり、

       

         このまま続けても、相互に理解の姿勢がないまま、

         非難しあうと感じて、

         その方のコメントを拒否しました。(  その旨は伝えました )






    

        向こうとしては言いたいこともたくさんあるでしょうし、


        私の意見について質問も多々あるでしょう。


        しかし、素性のわからない人と、

       

        お互い不動の信念と意見を持ちながら、    

        ネット上での鼻息の荒い

        攻撃的で不毛なやり取りは、実に時間の無駄と感じました。


    

    



      返信すれば質問されます。


      そしてまた、答えます。また、質問されます。



      そのように、 素性のわからない人と、


      お互いを理解しようとする姿勢のないレスポンスを


      エンドレスで続けていく事に、不気味さも感じました。

 





      ネット上で<炎上>という言葉があるように、

       

      顔も名前もわからない人と

      

      意見交換を戦わせるというのは、こういうことなのか、と痛感しました。



     



 



      特に、戦争や政治についてのことになると、

     

      それぞれ信念や理想がありますから、

     

      お互い一歩も引かず、かなり激しい論調になります。




     私は、自分の信じるもの、


     精神的なものは、何が何でも守り抜こうと決意していて、 かなり頑固です。



          信念においては、譲ることを知りません。







     

      相手の方はかなり真面目で


      短気な方のようなので


      今頃、私への不満や非難を記事にでもしているかもしれませんが、


      例えそうだとしても、何せ素性のわからない人の言うことです。


      痛くもかゆくもありません。


  


  


    ピグやチャットなど、リアルタイムのものならまだしも、


    メールというのは一方的です。


    議論において、リアルタイムでのやり取りにおけるような気遣いがなく、

    反意しか生まれません。



   

  

      私はその方に返信のメールを書きながら、なぜ、顔も名前も知らない人に、


      苛立ちを覚えなきゃならないのだろうか?


      非難しあうような不毛なやり取りに、なぜ貴重な時間を割かなければならないのか?


      とふと疑問に思いました。


 



   何度も言うように、顔も名前も知らない関係の中において、


   要はお互い何を言っても責任の所在がないわけです。



   

   そこに自分のネガティブな感情と時間、手間をかけることが


   ばかばかしく感じました。


  

 

   これが共通の目的や趣味を持つ者同士のやり取りなら

  

   励みにも楽しみにもなるでしょう。




  

  そうではない場合、関わりを回避することが最善です。

   

   




   やはりディベートというのは、顔を見て、声を聞いて、

   感触を確かめながら行うものなんだ、と、痛感しました。








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         今の時代、ネットを通じて簡単に友人がつくれます。



         しかし、友人がたくさんいればストレスがたまるし、


         人の分だけ、争いや危険の数も増える可能性があります。


         出会い系やチャットなどで知り合って、事件に巻き込まれているのがその象徴です。

      

      



 


         メールやチャットで

         昔なら絶対に会わなかった人と、会話し、出会う。

 

         時間も距離も越えてしまう。


         もちろん、その中には良い出会いもありますが、


         危険をはらむ出会いもある。






        だからまず、


        <自分がどんな人間になりたくて>


        <どんな人と>


        <どんな人間関係を築きたいのか>


        その意志がないままに、


        来る者全てを受け止めていたら収拾がつかない。


        他にもっとやるべきことがある。






     いい人と思われたい、とみんなにいい顔をする。


     誰かに理解されたい、と、リキんで相手の袖をつかんで


     話し込むようなことをするのは、


     不毛な事だと思います。





     人と向き合う前に、自分と向き合う時間のほうが何十倍も大切なのに、


     人とばかり向き合って自分をおろそかにするのでは、


     他者と良い関係は築けない。


 



    


     ましてや素性の知れない人に対して

     

     一喜一憂したり、気をつかって疲労するなんて、


     エネルギーと時間の無駄以外の何ものでもない。


     有効な時間の使い方ではない、と痛感しました。






     そして、 


     生きる上での自分の信念において、


     誰かに理解されたい、と願うことより、


     その信念において自分がどれだけ努力できるか。それが大事なんだと。






 

         自分が選んでひたむきにやっていることなら、 


         人の評価と理解を得られなくてもいいじゃないか、


         と思います。








    そんな時、マザーテレサの本がひょっこり出てきて


    そこに書かれた、マザーの、誰かの評価や理解など要求せずに、


    ただ、自分の信念を貫いた姿に、私は再び感銘を受けました。



  



       「 私は反戦運動には行かないけど、平和集会なら喜んで参加します 」


   



      このマザーの言葉は、国家間の戦争の事だけを意味しているのではありません。



         全ての言動において、この言葉通りに生きた人です。


    




    私はマザーに「 私はもっとも貧しい人のもとへ行きました。


             あなたはもっとも傷つく人のもとへ行きなさい。それがあなたの使命です 」




   ・・・・・・・・・ と言われました。 





         頂いた言葉の実現に向けて、ぼやぼやしてる場合ではない。

 

         マザーは生前とにかく時間の無駄を嫌う人のようでした。


         私も見習って、

        

         気を引き締めていきたいと思っています。