(ゆっくりペースでも3分30秒くらいでお読みいただけます♪)

実際の炭坑仕事歌の音源が、私の手元にあります。

 今では田川市にある石炭・歴史博物館で、資料として販売しているCDに収録されている音源のコピー、カセットテープです。先代の館長を務めた恩師・佐々木先生から頂いたもの、確かオープンリールテープに収録していたものをカセットテープにまとめたものだ、とおっしゃっていました。

「あんたなら、これをきちんと活用してくれるだろうから。」そう添えていただいた記憶があります。今なら博物館で手に入る音源ですが、先生のお気持ちに当時の私は感謝を感じつつも「今の自分では、まだこれを活かすことはできないかもな。」と思ってさえいました。

 

収録されていた音声はまさに、労働者のリアルな歌声そのものでした。

 

お世辞にも「うまい歌だな」とは言えないものですが、後ろで聞こえるツルハシの音・手拍子など、労働の現場で生まれたメロディーなのだな、と初めて聞いたときはゾクゾクするくらい圧倒されたように思います。―労働歌は、メッセージの塊。こんな歌なら歌ってみたい。この時信じられないくらい素直に「歌う」という行為を、特別なことではなく、誰もが持つべき当たり前の、もう呼吸するのと同じだと言い切っていいんじゃないかと思ってしまいました。

 

 思いが強ければ強いほど、メッセージとして発信する価値は上がっていくはず。

 

イエロー兄さんみたいになりたい!中村さん(イエローの本名)みたいになりたい!

これまでおよそ16年程、小学校で子ども達に向けて私の取組を伝える講師として、またイベント会場や地域のまつり、運動会等で炭坑節パフォーマンスを中心に歌い踊る人として活動を続け、その中で感想文や会場での声掛けとしてこのように言われたことが沢山あります。

どうぞ目指してください!自分か育ったまちにちゃんと感謝を感じ、自分が地元に何をできるか考えた結果、一心不乱に地域を愛する行動を起こすような、ヤル気がある大人、になってもらえるんだったら、何でもお手伝いをします、させてください!

 

…「歌のうまい人」、を目指したいんだったらプロの歌手や、音楽教室の先生に、面白いことがいえる人だったらプロの芸人さんに教えてもらったほうがいいと思います(笑)私が目指しているのは、アーティストやタレントではなく、「地底の声を形にする代弁者」としての田川在住一般人です。炭鉱が閉山した今も、この田川の地下には無数の石炭と共に、その時代を支え、そして無念にも坑内災害で亡くなり、身柄を引き揚げられることもできなくなった貴い命が未だ眠っています。

労働を支えた鼻歌、仕事唄。明日の生活を思いながら、家族の顔を思い浮かべながら、口ずさむ歌に小さな日常の幸せを願い、今に感謝した先人たち。無念の思いは、現代を生きる=「今の田川を支える」私たちに、きっと「しゃんとせ(もっと気合をいれろ)!」「田川の誇りを風化させるな!」「俺たちが汗で作った活気を消し去るな!」と訴えかけている…地元出身の画家・石井利秋先生の絵画を眺めていた時にそう感じ、この声を形にするべく、炭坑をテーマとした曲を自らつくり、誰にお願いするわけでもなく自ら歌うことにしました。「田川のメッセージを、田川人として発信したい」…その方法がたまたま歌だった、というだけの話です。

 

「私の歌声」はつまり、「炭坑を支えてくれた先人たちからのエール」という大きなメッセージをもつ表現であり、ちょっと宗教がかった発想になるかもしれませんが、ステージに立つ瞬間、「憑代(よりしろ)」になるイメージでスイッチを入れています、いや、自然に入るようになりました。

 

高校生までは、こんな田舎を出て都会で暮らしてみたい、炭坑節なんでそもそも歌詞も知らないし、古臭くて歌う気にもならない、と思っていた自分がいたからこそ、未来を担う子ども達が、幼くしてそういう思いに駆られたならば将来を担う大切な宝として全面的に支援したい、そう思います。地域の文化を、大切なメッセージを途切れさせないための宝、「将来の代弁者たち」にきっかけを与えてあげられる先駆者としての「歌う人」をこれからも目指していきたいです。

 

 「心の底から歌いだしたその美しさ豊かさが、かつてはその人達の仕事をいろどり、

その人たちの生活を守り、その人たちに生きる勇気さえ与えていた」 (炭坑版画家:千田梅二『炭坑仕事唄板画巻』より)

 

「ふるさとよ 今がこれからの正念場 川面の泡がささやく<月を出せ>

 腕をふり 足を踏み 声を上げて歌うは 明日の為 嗚呼 未来信じて駆けて行け

 炭を掘れ 炭を掘れ ヤマは閉じたが 炭を掘れ

 今は昔の 栄華のSTORY 時を超えて今蘇る 田川の明日に<月を出せ>

 真っ赤に燃えた 熱いハートは<黒ダイヤ>」

(田川創作炭坑節CDR21 『炭を掘れ!』より)

         

 

(補足解説)

 

田川郡川崎町にあった「上尊鉱業豊州炭鉱」は、地域を流れる中元寺川の下に坑道が位置していました。昭和35920日午前1時ごろ、川底が陥没し坑内に水が充満する「出水」が発生、作業中の鉱員220名のうち、67名が行方不明者となり、当時戦後最大の炭鉱事故でした。 この事故をきっかけに、豊州炭鉱は閉山。翌年3月、通産省の勧告によって遺体収容作業も打ち切りとなりました。

 

14歳から炭坑で働いた画家・石井利秋先生はモダンアートの世界で活躍されましたが、炭坑の生活を独特の色彩で表現した作品も数多く描いてきました。田川を代表する作家のひとりです。余談ですが、私の父が若い頃、石井先生に師事したようで、私・イエローにとってもゆかりの深い先生です。

 

その石井先生の作品の中で目に留まったのが「地底からの執念」という作品でした。地の底から湧きあがるような無数の手が描かれたもので、一見、おぞましい感じすら覚える作品ですが、この作品のキャプション(解説文)を読んだ時に、私の中で明確な目線が生まれました。

 

それこそが「先人からのメッセージを感じる」というものでした。

 

石井先生は、中元寺川から今でも湧き上がる小さな泡を見てこの絵を描いた。

その絵にインスパイアされた私が、今度は曲で表現したいと思った。

この地眠る文化や、このまちを支えてきた先人たちの思いを、再び掘り起こす。

「第二の炭坑夫」―。私の活動の最初のスローガンとなりました。

(ゆっくりペースでも2分20秒くらいでお読みいただけます♪)

 炭坑仕事歌―。炭坑節は、もともと炭坑の労働歌として生まれました。

子守唄、稲刈りや馬をひく時の歌、漁業の船乗りの歌、酒造りの歌など、そもそも今も地域で歌い継がれている伝統的な歌は単なる時代の流行歌などではなく、「その土地の、日常生活の中から生まれたもの」がほとんどなのではないかと思います。日常の大半を占め、まさに生活の中心にあった労働、そしてその労働の中で自然発生的に生まれてきた数々の歌。これらの歌の響きには、ゆったりとした節回しのもの、威勢の良いものなど様々なものがありますが、合いの手が入るものが多く、いわばその仕事に関わる人達が声を揃えて歌い継いできたことが想像できます。今の時代、オフィスや店舗での仕事中に鼻歌を歌えば、間違いなく大目玉をくらい、注意をされることになるでしょうが、これらの労働歌に感じることは、「歌うことで労働の生産効率が上がる」という特異点が認められていたのではないか、と言うことです。

 

いわゆる「テンポよく」という観点です。この、「労働の生産効率が上がる」については、経済学を研究されている方のエピソードとして、後々のブログでも少し触れることになると思います。

 

さて、作曲家や音楽専門家が作ったものではなく、労働者が、労働の中から自然発生的に作った歌―これは、現代の皆さん、音楽が好きな皆さんに例えて伝えるとすれば、「日本のブルース」とも言い換えることができるのではないかと思います。ちょっとオシャレに聞こえませんか(笑)

 

私のふるさと、田川にはたくさんの炭坑仕事歌が記録され、残されています。採炭唄(ゴットン節)、石刀唄(マイト節)、南蛮唄、選炭唄など。採炭=石炭をツルハシで掘る、石刀=硬い岩盤を爆破で崩すためのダイナマイト穴をあける、南蛮=坑内の資材や石炭等を、船の鍛冶のような形をした巻き上げ機械で巻き上げる、選炭=坑内から上がったものから、燃える石炭と、それ以外のゴミ(田川ではボタ、と呼んでいました、北海道あたりではズリ、でしたかね)により分ける、など、全てが炭坑の中で行われていた違う作業の現場から生まれたものでした。(ここでは割愛しますが、ここに書いたもののうち、南蛮唄は、山口県宇部地方にも残っているようです。宇部から伝わったと言われています。)

 

いつしかこれらの仕事歌は、地元田川の検番、博多や小倉、若松などのいわゆる花柳界に持ち込まれて三味線の伴奏が付き、日本の「戦後の復興は石炭から」の国策に乗って毎日のようにラジオから流れてくると、にわかに流行歌、そして盆踊りの定番とも言われる存在となりました。

 

もう一度言いますが、炭坑節は、炭坑の労働現場で歌われていた仕事歌でした。

 

仕事の憂さを晴らすために、時には上司たる役人への皮肉、はたまた恋しい人への淡い思いなどを率直に表現できたものが炭坑仕事歌なのです。全国で歌われている炭坑節は、もはや「流行歌としての炭坑節」であって、人々の思いがつまったメッセージソング、とは言えないのかも知れません。

 

「炭坑の中ではどんなことが行われていたのか、どんな思いで働いていたのか、歌い続けた人たちはどんな思いで口ずさんできたのか、―ここに詰まった思いを感じることが出来なければ、この炭坑仕事歌を歌う人にはなれない。」炭坑節が生まれたまち・田川の人間だからこそ、この歌の生まれた背景にまで目を向ける必要性を感じたのでした。

 

歴史的背景や実際の生活を学び、理解したものだけが「ホンモノ」を継承してほしい、誰もやらない分野なら自分自身で挑戦してみたい―。「歌う行為」そのものよりも、「歌うこと」そもそもの本質、そこにあるメッセージを読み解くこと、メッセージを自分の言葉で具現化することに興味を持ったことが、私のライフワーク「炭坑の文化を(もう一度)掘り起こす」のデフォルト的な、ベースアクションとなりました。

 

 

 

(ゆっくりペースでも2分20秒くらいでお読みいただけます♪)

石炭を掘り続けた炭鉱マン、日本の近代化を地底から支えた炭鉱マン。

今の社会では、オシャレで、ハイソで、インテリで、クールで、スタイリッシュな仕事が溢れているけれど、遥か昔から農耕・漁撈(ぎょろう)を中心に生活を成り立たせていた日本にとって、たったこの100年くらいで軽工業(繊維品加工など)から重工業に発展していった急成長の、一番シンガリを支えていたのは、炭坑マンが石炭を掘り続けてくれたお陰なんです。大きなビルも、船や飛行機もバスも、繊細な技術が必要な工業製品も、全ては「鉄の時代」を石炭産業が下支えした結果の産物。単調で、来る日も来る日も一心不乱に石炭を掘り続けた、炭坑マン、我々の先人達に、最大の敬意を表したい。たとえそれが生きていくための仕事だからとは決してひとくくりにできない危険な現場。蒸し暑くて、暗くて、孤独で…いつ落盤や粉じん爆発が起こってもおかしくない労働環境。それでもここに住み、この石炭産業を支えた、このまちの人達。私は彼らを、まぎれもない「勇者」だと信じて疑いません。

 

実際に私の祖父は、長野県出身。15歳で農村地帯のふるさとを飛び出し、一旦横浜の港湾施設で人夫業に従事、「九州の炭坑に行けば稼げる」と聞いて、初めてやってきたのが田川だったそうです。それから閉山までずっと炭鉱マン。閉山後も関連会社のブロック運搬をやっている姿、それだけを幼い頃に見た記憶があります。今はいない祖父、いつも歩き方に不自然さがありました。坑内の落盤事故を経験したからと、ちゃんと聞けたのは、私が炭坑節の活動に取り組み始めた頃でした。

そんな辛い記憶を呼び起こすような私の活動に、祖父はいつも笑顔で応援してくれました。

「頑張れよ」。私の最大かつ最高の支援者でした。

あなたが一生をささげた炭鉱のまち「田川」。

炭坑節、ホルモン鍋、チロルチョコに代表される労働後のご褒美=甘いお菓子など数々の炭鉱文化。炭鉱の町に住む人たちの笑顔、元気さ。炭鉱が閉山し、まちにその風景が消えかかってきた今だからこそ、あなたの面影を常に心に刻んで、このまちのかつてのアイデンティティーに多くを学びたいと改めて決意します。(最初の決意は2004NHK青春メッセージ(旧 青年の主張)で発信させていだだいてます、ここでは割愛。)

 

一般的な表現を用いれば、ブルーカラーの仕事。それでもこれを「最高にかっこいい」と思える自分になれたことを、心底誇りに思っています。

 

夫婦煙突見守るまちで 夢追い続けた地底の勇者

再び誇りをこの胸に 手を取り輪となり 夢を掘れ

(田川創作炭坑節CDR21 『煙突100年物語』より)

 

元気、笑顔、の要素が大事!一心不乱なひたむきさ、勢いも炭坑マンから学んだ姿勢のひとつ。

男くさい振る舞い(未だ研究中)、ヤンチャだけど憎めない感じ…現在の日本では男女平等が基本ですが、炭坑の坑内作業員は原則男性のみ、法律で女性の坑内労働は禁止されていたので。「今風」に偏り過ぎては本当の「当時」を再現できない、ウソの情報を知らしめることになる。泥くささも重要な要素。オシャレでインテリな要素は必要ない。声がかれるほどの大声で叫ぼうと、うっとおしいくらいにブース前を動き回ろうと、気持ちを込めすぎて全身でテーマソングを歌おうと、都会には似つかわしくない田舎くさいおしゃべりを見せようと、誰が何と言おうと、命を懸けて日本の近代化を支えた炭鉱マンのプライドを表すもの。「クール」では、この世界は表現し難いんです。私一人だけのものじゃない、地域のアイデンティティーを背負った証!むしろこれこそが地方創世の大命題かも!(飛躍し過ぎか?)

ローカル・プライド!地方が変えちゃいけないアイデンティティー!これが九州の田川だっ!!

田川ホルモン喰楽歩・イエロー兄さんでは、このスタイルを貫きます!