田原坂古戦場 | 歴史と文化と和の心♪

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こんばんは‼

一時古墳のレポが続きましたが、今回は田原坂のレポ参りたいと思います。

・・・何気に今年、西南戦争から数えてちょうど140年目の年にあたるわけですが、田原坂を巡る前に、少し西南戦争の概要をご紹介したいと思います。

 

明治政府に属していた大久保利通は、鹿児島の内情を知るべく警部や巡査を「視察」として送り込み、鹿児島にあった政府の武器弾薬を、県庁に知らせず強引に引き上げてしまいます。

政府のこの動きに感付いた私学校の生徒は強く反発。更に政府の密偵より西郷暗殺の計画があることを聞きだすと彼らの怒りは頂点に達し、草牟田火薬庫などの武器庫を襲撃するのです。

この時、私学校を留守にしていた西郷は事情を全て聞くと、生徒たちの勝手な行動に怒りを示しますが、時すでに遅し。急遽西郷を囲んでの大会議が開かれることとなります。

私学校幹部の中には慎重論も上がったといいます。

しかし「率兵して東京へ上り、政府に改革を迫る」といった意見が優勢となり、最後に意見を求められた西郷も「もう何も言うことはなか」と答え、私学校の生徒たちと運命を共にする決断を下すのです。

 

こうして国内最後の内戦、西南戦争が勃発するわけですが、薩軍1万3000は、まず鎮台の置かれている熊本を目指します。

これを迎え撃ったのが熊本鎮台の谷干城。

彼は熊本城に立てこもって戦う覚悟を固めます。

この時、薩軍が取り囲んでどんなに攻撃をしても、城は落ちなかったという話はかなり有名ですね!

 

結局熊本城の攻撃を失敗した薩軍は、官軍の援軍を迎え撃つべく田原坂を目指すわけですが、ここでの戦いが西南戦争の中でも一番の激戦だったといいます。

 

田原坂は熊本県の北西部、現在の植木町にある坂でして、高瀬街道玉東町木葉から植木町に通じております。

麓にある豊岡眼鏡橋からの標高差はわずか80mしかないものの、一の坂、二の坂、三の坂と、頂上まで1.5kmの曲がりくねった道が続いております。

実はこの道だけが唯一大砲を曳いて通れる道幅(3m~4m)があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本へは進めなかったのです。

更に熊本城からこの田原坂まで、繰り抜いた凹道となっており、前方の藪や左右の高所より銃弾を受けやすいため、両軍にとって生死を分ける道だったのです。

植木・玉東地区は各地に陣跡や病院後、薩軍・官軍両軍の墓地、戦死の地碑など、激戦をうかがわせる史跡が点在しておりますが、その中でも絶対見ておきたいのがこちらの田原坂公園ですね‼

公園内には地形を示す模型が置かれておりましたが、これを見たらこの場所がいかに重要だったかがよく分かります。

展望所もありましたが、この景観は明治10年の頃とほぼ変わらないのだそうです。

各軍の本営地、重要史跡を示したパネルも置かれていたので、戦いの動きや位置関係を確認するには絶好の場所です。

付近には、西南戦争で戦死した人々の慰霊碑が建っております。

薩軍・官軍両軍の戦死者名が記載されたレリーフ。

こうしてみると夥しい数です。

ちなみに今でもこの辺りでは大量の小銃弾や薬莢が出土しているといいますが、田原坂の戦いで消費した弾薬は1日およそ32万発と言われているそうです。

日露戦争における第二次旅順攻撃の時が1日30万発だったというので、物凄い量だったことが分かります。

 

そして田原坂の戦いでは篠原国幹など、4000人余りの死傷者が出たといいます・・・。

 

数だけ見れば凄い人数ですが、ここに刻まれている人一人ひとりに壮絶なドラマがあったことを、忘れてはいけないですね・・・。

公園内にはほかにも、薩摩塚と呼ばれる古い塚や

戦いの壮絶さを記した「田原坂崇烈碑」などの石碑が多くが立ち並んでおりましたが、

何といっても有名なのが、こちらの美少年像ですね←

民謡「田原坂」の中に

 

「右手に血刀左手に手綱、馬上豊かな美少年」

 

という歌詞がありますが、これを見事に再現した像となっております。

・・・ちなみにこの直前の歌詞がすぐそばに。

 

「雨はふるふる じんばはぬれる

越すに越されぬ田原坂」

 

この民謡「田原坂」は西南戦争に参戦した熊本隊の岡本源次が、12年後に済々黌の生徒を引率して遠足に訪れた際、「雨は降る降る人馬はぬれる、ここは古戦場田原坂」と当時を偲んだといいます。

ただ、これは人吉隊・三宅伝八郎による説なのだそうで、これを九州日々新聞の入江白峯が「越すに越されぬ田原坂」と改作し、芸者留吉に作曲させて第一歌詞となったといいます。

その先からは、一の坂、二の坂、三の坂を見渡すことができます。

一の坂付近を少し歩いてみました。

とてもここで激戦があったとは思えないほどの静寂が広がっておりましたね・・・。

他にも公園内には、「弾痕の家」と呼ばれる土蔵もあります。

西南戦争当時、田原坂の頂上にあった松下彦次郎宅の土蔵が、両軍の銃弾で無数の疵を受けたといいます。

この土蔵については戦いの直後、上野彦馬が撮影したものと、明治13年ごろに熊本の写真師であった富重利平が撮影した写真が残されているといい、これらの写真を元に復元されたのだそうです。

 

中は展示室になっておりましたが、復元とはいえ、戦いの生々しさを今に伝える建物でしたね・・・。

 

 

 

 

 

この田原坂の激戦の末、薩軍は敗北。

人吉で軍を再編成するものの、官軍の攻撃を受けて宮崎へ敗走。それからおよそ2ヶ月後、薩軍は和田峠で決戦を挑みますが敗れ、遂に西郷は軍の解散を命じます。

西郷自身は桐野利秋らと共に官軍の包囲網を破り、9月1日に鹿児島に帰還。

鶴丸城背後の城山に立てこもります。

 

そして官軍に最後の戦いを挑もうと山を降りたとき、銃弾が西郷の太腿を直撃。

戦いの不利を悟った西郷は自害して果て、西南戦争は終結したのです。

 

 

 

西南戦争について、一番身近な史跡が点在する場所で生まれ育ちながら、ここへ来て初めて鬼気迫るものを感じました。

それはこの当時と変わらぬ景観と、不思議なまでの静けさが影響しているのでしょうか、この場所で各々の「義」を掲げて散っていった人々の、魂の叫びが聞こえてきそうな感じがいたしましたね・・・。

 

更に込み上げる感情に止めを刺したのが、公園内に建つ「田原坂西南戦争資料館」。

 

この資料館についてはまた次回お話ししたいと思います。