こんにちは。
本日2回目の史跡巡りレポを更新いたしたいと思います☆
先ほど、弘道館をご紹介いたしましたが、烈公と共にこの学校の設立に携わった方がこちら。
藤田東湖(ふじたとうこ=1806~1855)殿。
斉昭ブレーン三人衆である「水戸の三田(戸田蓬軒&武田耕雲斎&藤田東湖)」の一人になります。
・・・たまたま歩いていた所の近くに彼の誕生地があるということで、
(ちょっと寄り道してみるか)
の感覚で行ってみたところ、なんのなんの。
超住宅地の一角にありました←
こーんな看板も建っていたのにき、気付かなかったとは・・・orz
相変わらずの方向音痴なんとかしたい・・・(死)
・・・話を元に戻しますが、もともと学者の子だった東湖は、水戸藩内の跡継ぎ争いの際で斉昭派に付き、斉昭が藩主になった後スピード出世を果たします。
斉昭の藩内改革でも大いに活躍。その一方で尊王攘夷を唱えた東湖は数々の書物を著し、全国の尊王攘夷派から注目されることとなります。
弘化元(1844)年、幕府に無断で軍事演習を行ったとして斉昭が処罰を受けると、東湖も18年の謹慎生活に入るものの、嘉永6(1853)年の黒船来航後、斉昭とともに謹慎が解かれた東湖は、海防御用掛に任命され、見事政治の世界へ返り咲くこととなります。
この頃、東湖と交流をもった有名な志士が
薩摩藩士・西郷隆盛や
福井藩士・橋本左内。
彼らは、東湖の考えを聴くべく何度も東湖のもとを訪れ、大きな影響を受けていたといいますね!!
尊王攘夷派の巨星として全国の志士たちに影響を与えた東湖ですが、1855年に発生した安政の大地震の際、亡くなってしまいます。
泣けるのは彼の最期!!
多くの犠牲者を出したといわれる安政の大地震。
地震発生後、既に避難していた東湖は、母親が逃げ遅れてしまっていることに気づきます。
すると彼はすぐに家に引き返し、母親を救出。
直後、家が崩れ、東湖はそのまま圧死してしまうのです・・・(TωT)
政治の世界で活躍し続けた東湖。
その最期は何とも人間味あふれるもので、初めてこのエピソードを知った時、ちょっとホロリときましたね・・・(´・ω・`)
生家自体は残っていないものの、産湯の井戸や
石碑などが建っておりました!!
・・・何とも見落としがちな場所ではありましたが、幕末好きには欠かせない場所!!
付近をお通りの際には、ぜひ☆