こんにちは!!
・・・お正月連勤の疲れもようやく落ち着いて、本調子を取り戻してきたところでございますm(u_u)m
来週&再来週は、新年会が立て続けであるので、また体調を整えておきたい所です←
さて、史跡巡りレポ水戸編、ガンガンまいりたいと思います。
幕末を語る上で、欠かせない藩っていくつかありますが、水戸もその一つだと思います。
先の記事でご紹介している『水戸学』。これは幕末の尊王攘夷運動に多大な影響を及ぼしており、御三家のひとつでありながら、その独自性を秘めていた水戸藩の姿そのものだと思うのです。
その『水戸学』を学ぶ者たちが集った場所が、こちら。
藩校・弘道館(こうどうかん)です。
今回は、この弘道館を巡りながら、幕末の水戸藩について繙いてみたいと思います。
弘道館は、9代藩主徳川斉昭によって天保12(1841)年に創建されました。
藤田東湖や会沢正志斎らを師として、多くの人材が育てられたといいます。
敷地面積はおよそ17.8haで、当時は正庁(いわゆる校舎。講義や試験などが行われた)を中心として、文館(現梅林。寄合舎や研究室があった)と武館を配し、天文・数学・地図の屋形と多数の付属建物・養牛場・薬草園を持つ医学館が立ち並んでいたといいます。
・・・このマルチ具合、今の大学ですね!!
弘道館は国の特別史跡となっておりますが、元治元(1864)年の天狗党の乱や、太平洋戦争の際の空襲でそのほとんどが焼失してしまっております。
ただ、正門(上1枚目の写真)と正庁(上2枚目の写真)および藩主の休息所であり、五郎麿・八郎麿ら諸子の学問所、慶喜さま謹慎の部屋である至善堂は、戦災を免れて、今も往時の姿をとどめております。
なお、平成23(2011)年に発生した東日本大震災で弘道館も被害を受けてしまい、3年の修復期間を経て、昨年3月に元通りの姿を取り戻しております。
再公開まもなく訪れたため、タイミングがよかったですね!!
文化財を守らんとする地元の方の想いと、復興に尽力する人々の血のにじむような努力に、頭が上がらない思いでしたね・・・。
さて、正庁を前にしてまず目に飛び込んでくるのが「尊攘」のお軸。
「これぞ水戸学!!」
というのを見事2文字であらわしております←
迫力ある文字に出迎えられ、いざ中へ。
建物の中は何と撮影OKでした!!(ありがとうございます!(TωT))
ガイドさんも常駐しているので、マニアックな話を聞くことができます☆
・・・先ほどの「尊攘」の部屋。
もう、この薄暗さ、志士たちがまるで密会でもしてそうな雰囲気でしたょ・・・←
この部屋が藩主の出座する正席の場でして、藩主以下重臣たちが文武の試験や儀式を挙げたといいます。
床の間のお軸は、弘道館の建設に際して造られた石碑の拓本になります。
石碑自体は近くにある「八卦堂」に納められているといいますね!
障子の外からは、梅林をみることが出来ます☆
烈公、本当梅好きだな・・・←
廊下も畳廊下でしたので、めっちゃくちゃ広かったですね!!
・・・そして私が興味があったのが、こういった生活空間。
こちらは御不浄、いわゆるトイレになります。
トイレ広っ!!←
便器に「使用禁止」の張り紙が。
・・・使う人でもいたのかな←
そしてこちらがお湯殿、そう、お風呂場ですね!!
お風呂場もなかなか広かったですゾ!!
縁側。
天井が高くて解放感抜群でした!!
そしてこちらが前回ご紹介いたしました、至善堂。
鳥羽伏見の戦いの後、慶喜さまが謹慎されたお部屋になります。
畳の縁にまで、葵の御門があしらわれておりましたゾ!!
至善堂にはこのほか3室あったのですが、藩主の子どもたちはここで学んでいたといいます。
そんな思い出の場所で、慶喜さま・・・(゚ーÅ)
至善堂からみたお庭の風景。
慶喜さまも眺めたのでしょうかね!
同じ目線で少しテンションが・・・←
建物の中もなかなか広くてしばし時を忘れてしまいます。
建物の周りも、見落とせない史跡が点在しております。
こちらは、斉昭の正室である文明夫人(慶喜さまの御母上でもありまする)の句が刻まれた石碑になります。
天さかるひなにはあれとさくら花
雲のうへまでさき匂はなん
それからこちらは、斉昭公自ら植えられた梅なのだそうで。
「烈公梅」と名付けられておりましたネ←
敷地の西側の大半は調練場と馬場でして、乗馬や小銃射撃などの武術調練に使用されたといいます。
中央の広場には、梅林のなか
鹿島神社や
孔子廟を配して、教学の根源を明らかにしておりました。
楠木の下にあるこちらの石碑は、「要石歌碑」と呼ばれ、斉昭の書いた
「行末も 踏みなたがへそ 蜻島 大和の道ぞ 要なりける」
の歌が刻まれておりました。
なお、こちらの八卦堂に先ほど申した弘道館碑が収められております。
寄宿生のための時鐘である「学生警鐘」や
古井戸など、生活を思わせるものも点在しておりましたね!!
このように、その面積や規模、学科のいずれをとっても「天下一の三千年の歴史に未だ曾て見ざる学校」だった弘道館。
その教育内容に至っては当時の常識を超えて常に時代の最先端を行くものだったといいます。
「学問と事業の一致」「文武不岐」などはその大きな特色でして、学問に終わりはないということで、卒業はなかったとか(え)。
他藩にくらべ、多くの特色と明瞭な理想を持った弘道館は、以後水戸学や尊王攘夷を目指す人々の手本となり、目標となるのです。
ということで、次回は藤田東湖について、ご紹介いたしたいと思います。