こんばんは!
・・・早速ですが、史跡巡りレポ鎌倉編の続き参りたいと思います☆
本日は東慶寺についてです。
円覚寺のすぐ近くに、臨済宗の東慶寺の入り口がありました。
山号は松岡山、正式名称は「東慶総待禅寺」と言います。
創建は弘安8(1285)年といわれ、開山は北条時宗の夫人である覚山志道尼(かくざんしどうに)で、開基は時宗の子・貞時(9代執権)になります。
東慶寺境内に覚山尼のお墓がありました!
覚山尼は、元は堀内殿と言われ、秋田城介安達義景の娘(ちなみに霜月騒動で有名な安達泰盛の妹)でして、弘長元(1261)年に時宗と結婚、貞時を産んでおります。
時宗が臨終に先立って出家した際、覚山尼も一緒に落髪したといいます。
・・・大河ドラマ「北条時宗」では西田ひかるさんが演じておりましたね!(ちなみに晩年覚山尼(語り)は十朱幸代さん)
ドラマでは「祝子(のりこ)」と名乗っておりましたが、何かと時宗を支えているお姿が非常に印象的でした!
そして最終回、時宗を看取る所すんごく泣いた・・・(TωT)←
・・・話がそれましたが、この東慶寺、「縁切寺」としても知られますが、そのような女性救済を始めたのも覚山尼と言われます。
縁切寺法を伝える寺の旧記を写した延享2(1745)年の『寺例書』によると、寺法の儀は開祖以来、夫から逃れたい女性が当山に駆け込みをすれば離縁できると記されております。
この旧記はいつごろ書かれたのかははっきりしないみたいですが、東慶寺には早くから縁切寺法が伝わっていたのではないかと言われるそうです。
ちなみに「縁切寺」と世間で言われるようになったのは江戸時代になってからだと言います。
明治4(1871)年に縁切寺法が廃止され、その2年後裁判による女性からの離婚が認められるようになるまで、東慶寺は離婚を求める駆込女を救ってきたと言いますね!
さて、小さな山門を越えた所に、鐘楼がありました☆
ここにある梵鐘には「観応元(1350)年」と刻まれておりますが、これはもとは材木座の補陀落寺(ふだらくじ)にあったものだと言います。
その先には
仏殿があります。
寛永11(1634)年に建てられたもともとの仏殿は現在横浜の三溪園にあるといいますが、こちらもまた雰囲気のある建物でした。
「泰平殿」と呼ばれるこの建物には本尊釈迦如来坐像が祀られ、脇には覚山尼と用堂尼の像が安置されております。
数多くの寺宝が展示されている松ヶ岡宝蔵では、鎌倉後期に造られたという聖観音菩薩像(国重文)の朱印をいただきましたね!
そして、
この東慶寺を訪れたのは、あるお方のお墓詣りが目的。
熱愛人物である秀頼さま&千姫さまと深いかかわりのある、豊臣家最後の姫。
ようやくお会いできました。
ということで、こちらは次回じっくり語りたいと思います←(えっ)