日光市鬼怒川

7世紀半ば、唐.新羅の連合軍に破れた百済王は、軍の精鋭、貴族、学者そして技術者等をしたがえて大和の船団に伴い列島へ逃れます。

百済と大和のながきにわたる同盟関係ゆえに、百済王は、陣(じん)を構えることをゆるされます。

学者や匠は、朝廷管理の下、かつて隋や唐を師として得た学問や技術をその新天地大和に捧げます。

軍人は、西日本の各地に百済式の山城を築き唐の侵犯に備えます。

ところで、大和の港には、百済人の一行よりひとあしさきに、これも唐新羅連合に敗れた高句麗の船団が入港していました。

そして朝廷がその処遇を決めかねていました。

満州に残る高句麗王碑の碑文にもあるように、ながきにわたり大和と高句麗が敵対関係にあったからです。

そのうえ大和の経済ははさきの大戦で疲弊しています。

とはいえ大和朝廷は唐や百済程ではないまでもかつて高句麗から漢学者の提供を受けた借りがあります。

朝廷は協議の上一行約3000人のほとんどを遠方のクニ(地方分権を有する所)に委ねます。

高句麗人達は相模に配置されます。

相模の荒野に着いた一行は役所におもむき指示を仰ぎます。

役人は高句麗人の登録に「狛(こま)」の字をあてます。

これはかつて漢人が高句麗人を侮蔑して名付けたものです。

それは今も狛江、狛川、狛犬、狛楽、狛笛などとして残っています。

ところで、新羅人は、朝鮮半島の先住民といわれます。

それならば、隣の大和人とは縄文時代から血と文化の深い交流がある筈です。

そんな(仇敵の)新羅的風貌風俗をうかがわせる大和人の侮辱的対応に、彼等は何を思ったでしょうか。

幸いにして大地は肥沃(ひよく)です。

祖国では上層に位置していた高句麗人は、皆一平民となって作業着をまとい、荒野を開墾し、苗を植えます。

その活動は、東へと進み、やがて関東の各地に至ります。

また学問や武術の鍛錬を怠らずその継承に努めます。

そして高麗(こま)神社を建て、民族の無事を祈ります。

当時の歴史的状況をかんがみて以下を想像します。

都では滅んだ二国の文化を後世に継承する運動が高まります。

朝廷は帰化系の学者、匠そして楽士を集め歴史編纂や建築、仏像仏具の制作そして楽曲のコピーを命じます。

スタッフに高句麗ゆかりの役人が加えられます。

上古の帰化人の子孫です。

しかしすでに大和人化している彼等に新参の高句麗人に対する慈(いつく)しみはありません。

なお、東国(東方)に根を下ろした高句麗人達にも兵役の義務がかせられます。

朝廷は高句麗人の二世、三世達を北九州や対馬の国防にあてます。

一旦都に集められたその防人(さきもり)達をねぎらう為、朝廷は宴(うたげ)をもうけます。

そして屋外広場に整然と並ぶ彼等に少々の酒をふるまいます。

そして朝廷直属の楽士からなる楽隊によって、このたび雅楽の一つとして加えられたその狛楽(こまがく)が、彼等の前で奏でられます。

しかしそれは高句麗楽の楽曲を雅楽式に演奏するものであり、騎馬民族の情熱的なサウンドではありません。

あらためて彼らは「高句麗は滅(ほろ)んだのだ」と言って、泣きました。

そして祖国への郷愁を断ち切り、大和の民(たみ)として生きることを心に刻むのでした。🌾✨





高麗宮(こまぐう)のさ霧が中の石畳しずしず二輪並ぶ白百合 をさむ

日高屋草加松原店唐揚定食