はなるるん
HANARURUN
SAMMY RICE🌾BAND
わがバンドの演奏です。よろしければご視聴下さい。

(これは、15年以上前かな?今は無きYahooブログに載せた記事です。よろしければ、一読下さい。)

自分自身も確信半ば(いや、その頃の私は2、3割で今の私は1割以下かな)の、非科学的な話で申し訳ありませんが、よろしければ、ご覧下さい。

小学生の頃の寒い日のことです。

学校の授業が終って、担任の先生が「お前が言うことを聞かないから、親と話し合いたい。直ぐ呼んで来なさい。」と云いました。

しかし私は、父からの鉄拳制裁を恐れて、家に帰ってそのことを告げませんでした。

待てど暮せどやってこない父兄にごうをにやし、先生の方から我が家にやって来ました。

すでに私は逃げてしまっていたので、先生が我が家で何を話したのかを知りません。

その日父は私を叱らないだけでなく、その事について全く触れませんでした。

当時は不思議に思いましたが、後日先生が我が家の家族関係について私にたずねたことなどをかんがみて、生後十ヶ月で別れた私の実の母が私を尋ねて学校に来たということに、大人になってから気付きました。

先生は私の学校生活の様子を母に伝えるべきか、父と相談をしたかったのでしょう。

そして彼なりに気を使って私にあのような言い方をしたのだと思います。

私は幼時、喘息の発作によって、死の淵を二度さまよいました。そんな私に、将来体力を使う仕事は無理だろうから、学者になるか、手に職をつけるしかないと、父がよく云っていました。

ところが小学校の高学年の頃から、それまでトップクラスであった私の成績が徐々に落ちてきました。

勉強をしなければ、授業内容を理解できない時期に入ったのです。

中学二年の中ごろには、ビリに近い位置に落ちていました。

習いごとも怠けて、身につきませんでした。

ただし私は遊びが好きなだけで、怠けたのではありません。

入り婿の連れ子であった私は、家族との折り合いが悪く、いつも不安で、神経がおかしくなって、気を入れてものごとを行えなかったのです。

いつ頃からだったかは覚えていませんが、中学校の担任の先生が私の私生活に立ち入って、心配してくれるようになりました。

学校へ赴いた実母が先生によろしく頼んだから、あるいはそんな母子を哀れに思ったから、かもしれません。

当然母へ私の授業態度や成績が、報告されたでしょう。そして母はそんな堕ちたわが子に胸を痛めたことでしょう。

そんなある日のこと、父は筆をとり紙片になにか書き記しました。そして長方形にたたんで、居間の柱の上部に画鋲で張りつけました。

それは父の母、つまり私が誕生する以前に亡くなった私の祖母を、自己流に祀(まつ)るもの、どの宗教にも属さない、素朴なものでした。

父は入り婿だから、自らの血筋の位牌などは家に無かったのです。

私はその柱の傍のコタツに寝転び、ウトウトと居眠りを始めました。

しばらくして目がさめて、起き上がろうとしました。しかし体がまったく動かないのです。

傍から普段どうりの父や弟の話し声が聞こえます。しかし私だけが別の世界にいました。

必死にもがいたら、私を押さえていた何かがスッとほどけて、体が動くようになりました。固まっていた時間が、どれほどだったかは覚えていません。

起き上がる時に、父が私の方を見たような気がします。しかし私は彼にそのことを話しませんでした。

そこはその頃のわたしにとって、大事なことを打ち明ける場ではなかったのです。

金縛りは、あの世のからのメッセージだと聞きます。

霊というものが存在すると仮定すれば、祖母は、母が私を案じているということを知らせたかったのかもしれません。

同時に祖母自身が草葉の陰で私を見守っている、というサインだったのかもしれません。

やがて私は複雑な家庭環境を嫌って家を飛び出しますが、すでに喘息は治って、体が丈夫になっていました。

努力することもそれほど嫌いではなくなって、少々の知識も身につけ、豊かではないにしても、貧窮することも無く、今日まで生きてこれました。

これも祖母やおそらく亡くなっているであろう母が、見守っていてくれるからなのでしょうか。

いや、あの世など無く、霊など存在せず、金縛りは、生理的なものかも知れません。

そうであっても、生んでくれた母、そして祖母らに感謝して、生きたいと思うものです🌼。





おそろしや障子を閉めて坐る父長きキセルの手にあればなほ をさむ