中世の樺太アイヌ民族は島内の諸民族の頂点に立ち、大陸との交易の権益を有し、栄えていました。

時の大陸の帝国元がその物産に目をつけ、樺太を攻めました。世にいう「北の元寇」です。

彼等はひるむことなく、応戦しました。

強大な元軍に対し、総人口が数万の彼らは、おそらくゲリラ戦法を駆使して、立ち向ったのでしょう。

そして四十年を戦い抜き、引き分けに持ち込みました。

やがて幕末、領土拡張をすすめ南下するロシアと、それを阻止せんと立ちはだかる日本により、樺太帰属の日露交渉が行われます。

近代化に立ち遅れた樺太は近代社会にいう国家とみなされず、住民はカヤの外に置かれ、島はピョードル朝と徳川幕府によって南北に分断されました。

明治になり、千島樺太交換条約により、南樺太は一旦日本を離れますが、日露戦争の勝利によって戻ってきます。

時の政府は樺太アイヌ人に日本式の姓名を名乗らせます。国を失った上に、民族のアイデンティティーまで失う、彼らの悲しみは如何ばかりだったでしょう。

それにしても、なぜ政府はそんな面倒なことをしたのでしょう、樺太や北海道の地名のように当て字をするか、カタカナの表記をすれば済むことなのに。

それは、大和民族へ同化させる目的もあったでしょうが、明治政府の四民平等宣言による、平民に苗字をとなえしむということの、一環だったのかもしれません。

やがて彼らは第二次世界大戦の敗戦によって、本土へ引き上げてきます。

そして、戦後処理などと叫ぶこともなく、日本列島の何処かでひっそりと暮しています。

二十年ほど前、たった一人樺太アイヌの女性が、樺太に残っているのを知りました。お年をめされていましたが、ご健在でしょうか。

ところで北樺太の樺太アイヌ人は日露のどちらに帰属したのでしょう。確実な資料を持ち合せてはいませんが、ソ連崩壊前のある雑誌の連邦の民族のリストの欄に、樺太アイヌ族が載っていないので、南北分断の際に南樺太へ移住させられたのかもしれません。

樺太アイヌ民族は北海道アイヌ民族と同様に(本土や沖縄の人に共通の血を含むところの)一万六千年前に、化学反応を利用することにより土器を生み出した、かの縄文人の末裔だといわれています。

今、この世の何処にも彼らの国が、言語が、存在しないのです。




脱ぎ捨てし帽子は林の風に吹かれやがて落葉に埋れゆきけり     (をさむ)