我が関東には古代毛人(えみし)といわれる人々が住んでいました。今でも上毛野という地名が残っています。

毛人は同時代東北に居住していた蝦夷(えみし)と同様に縄文人の特色を色濃く残していたと言われています。

何年か前、七千年前の縄文人の遺跡の中に巨大木造建築に必要な基本技術(柱を内側に傾ける等)の五つの内の(今のところ)三つが発見されたそうです。

その技術は世界の古代歴史に類をみない木造高層巨大建造物である(古代の)出雲大社や法隆寺等に受け継がれました。

そんな縄文人的特色を有する毛人の郷毛野(ケノ)は邪馬台国近畿説でいえば狗奴国のことだといわれています。

そうであるとすれば当時の中国の学者はYAMATOを邪馬台、KENOを狗奴と発音の近い漢字をあてたのでしょう。

ただし関東人が自らを毛人とか毛の国などとはいわないでしょうから、それは近畿人によって、ネーミングされたものでしょう。

毛野国は巨大な魏の後ろ盾を有す大和国と対峙していた、強国だったのかもしれません。

ところでタイトルは忘れましたが、(近畿の)古書に東方の人間が言葉尻を切って話すとあり、別の書物には白眼が青くて卑しいと著しています。

今では逆に関東人が大阪弁等を柄の悪いイメージにとらえていますが、誉められたことではないから、慎みたいですね。

私の髭が濃く、このごろは濁ってきましたが、白眼が青いのは、関東人の中に僅かに残る毛野国の民の遺伝子によるものかもしれません。

いずれにしても関東の毛人の国、東北の蝦夷の国そして九州の熊襲(のちの隼人?)の国は大和の軍勢に打ち滅ぼされてしまいました。

戦勝国の大和は当然ながら殖民活動のため膨大な屯田兵を送ったことでしょう。

後に女性を含む農地開拓者や商人工人などを送り込めば、瞬く間にそこは大和の大地に変貌します。

半農業半狩猟の生活をする人口に劣る現地人など、砂に水が吸い込まれる様にわずかな期間で、消えていったことでしょう、独自の文化を連れて。

よって私は少数民族であるアイヌ民族の将来を危惧するのです、民族の存亡については無論の事、何万年という気の遠くなる程の時間をかけて培われてきた、言語をはじめとする貴重な文化が消滅することを。

ましてやアイヌ民族は、(縄文人を母体とする)大和民族や琉球民族と血をわけた兄弟なのです。

終戦間際突然不可侵条約を破棄して、弱りきった日本を攻撃したかの国に持ち去られた南樺太。

歴史的背景をかんがみても、先輩達が苦労を重ねて開拓されたことをみても、いつかその大地が戻ることを願わずにはいられません。

そしてそれが国益の為だけではなく、樺太アイヌ民族という日本人の為でもあってほしいのです。

敗戦によって、樺太アイヌ人は樺太を追われ、残留した一人の女性を除く全ての民が、本土の何処かで暮らしています。

すでに種としての純粋性は失われているでしよう。

それでも彼等がヤンケモシリ(陸地の国土・樺太国)に戻れるような時代がやって来て、消えつつある彼等の文化の火が、再び明るく灯ることを願っています。




山焼や眼(まなこ)澄みたるわが毛人(えみし)     (をさむ)