中世の日本では悪口は犯罪とされ、重大なものには流罪が、軽微なものには召籠(めしこめ)が科されました。

また、裁判においてそれを行う者は、敗訴とされました。

ただし、合戦における作法としての詞戦(ことばたたかい)や、悪口を用いた祭りなどは許されました。

さて、昭和のある日、某女性映画評論家が言いました、(評論家であっても)出来あがってしまった作品を、酷評するべきではないと。

そういえば、歴史上の大人(たいじん)達は、敵の悪口を言いません。打ち負かした相手をも敬い、礼を尽くします。

彼女は文化人にあるまじき卑猥な言葉を口にするので、あまり好きではなかったけれど、それを聞いて見直しました。

己の欠点を棚にあげて他人を悪く言ってはならない、などという道徳的なことを別にしても、これは大切なことです。

つまり、悪口を言うときの表情、或いはそれに同調する表情は、どこか醜くてかっこ悪いのです。そして悪口を言わない人は、爽やかでかっこいい。

また、どんな問題も、悪口によって解決を得ることはありません。それどころか、周囲の信用を失います。

さらに、相手を屈辱的な立場に追いやって憎しみを煽り、仲直りのチャンスも、更正のチャンスも奪ってしまいます。

微々たるストレス解消のために、そんな割りの合わないことをしないほうがいいでしょう。

とはいえ、言うは易し行うは難しであり、そういう私もときおり立ち止まって、己に問わなければいけません、醜くはないかと。




谷の底河鹿を岩となりて聴く  (をさむ)