がんの患者さんの10%前後、適応障害/軽症うつ病も含めると40%近くまで抑うつ気分になるといわれている。すごく多いんだ!ってことに気づく。がんにはなりたくないよなあって世界中の人が思っているはず。でも日本人の今や2~3人に1人が、がんで最期を迎える時代、その約半数はうつになると言われると、なんか先が暗くなってしまう。やっぱり、うつになるよね・・・わかる、わかる。新聞でもニュースでもこういう統計が常に紹介されているので、もっと楽しい情報はないんかいって思いながら、私もそういう暗いニュースを出している1人かもしれないって気づいてしまう。


いやいや、暗い話の中に笑顔や明るい希望を見出して伝えるのが私の課せられた使命。

緩和ケアの仕事はね、だから半分は聴くことが仕事になる。話を聴くと、いろんな感情に気づかされるが、うつを克服した話、うつが改善できた話もあり、よかったね~ってこちらも安堵することが時々あるんです。だから、がんに加えてうつになっても少なくともうつは何とかなるよって伝えたい。


私の印象であるが、今まで普通に生活されていた人が、突然あなたがんですよ、とか、もう治りません、などといわれて、笑顔でいろって方が難しい。死にたいほどつらくなるのも納得してしまう。だからがん患者さんがうつの気分になるのは人間として当たり前の反応ともいえる。


私が3000人ほどのがんで亡くなられた方を見ていて印象として思うのは、がんでうつになってもほとんどの人(9割以上)は適応できるし、むしろ残りの人生を逆に輝かせることができたり、より自分を見つめ直して成長されたりするものだと感じている。最近よく言われる"レジリエンス”(逆境からの精神的な回復力)ってやつだ。


だが、中には自殺を図る人がわずかにみえる。データをとっているわけではないが、自殺まで図る人はもともとうつ病の人が、がんになったケースである。つまり何が違うかというと、普通に生活できていた人の場合、うつになってもほとんどの人が耐えて回復していくが、もともと大うつ病の人でがんになる場合はことが違うんね。がんを抵抗なく受け入れるようなところがあるし、中にはこれで確実に死ねるっていう人だっていた。でも医療者は頑張るから、がんの身体症状が治療や緩和ケアでよくなると逆に自殺を考え始め企図するのである。


うつ病は確かにこわいなあと思うが、がん患者さんがうつになってしまう場合は薬もよく効くようだし、精神的な回復力も期待できる。だから是非話をしてみてこころの中に渦巻いてきた苦悩を吐き出して楽になってもらいたいと思う。


新聞やニュースでは情報が上っ面に流れて、聞いている人を不安にさせてしまうことがあるから、そうとは言えないよって安心してもらうためにこのブログを書かなきゃ、伝えなきゃって思った次第。


読む人が少ないから広まらないかもしれないけど、少しでも明るい話を、暗い話は誤解を与えないように地道に伝えていこうと思う。



遅ればせながら2014年に出版された「がんが自然に治る生き方」が書店で目に付いたので購入

怪しげな「これは効いた!」類な本は根拠に乏しくまた逆に無理に科学的(そうな)理屈をひっつけており、いいかげんなことが多いようだ。体裁が毒々しいきらびやかな本は人目につくが逆に怪しげさや裏の意図を勘ぐってしまいそう。


また代替療法などは個人的には100%当てはまっても他の人に当てはまるとは限らない。誰でも奏効率50%で効くような抗癌治療というのも感かしなければ、似たようなものだ。統計学的に裏付けしているだけで、その人に合う、そして緩解してしまう方法とは決して言えないので、抗癌標準治療も代替療法も民間療法も変わらないと感じてしまうのもわかるような気がする。だって、100%効くかどうかが実は患者は究極的には願っていることなんだから。


このケリーターナー博士の本がすごいのは、完全緩解したと思われるひとに着目してその要因を世界的に1000例以上で検証したところにある。彼女も言っているようにだからといってこの本の骨子を守れば緩解するとは言っていない。あくまで緩解した人の要因を調べたらかなりの有意をもって抽出された項目が9つあったという事実だ。


しかし、この要因は私たちが生きるうえで本当に大事なことだと思えてくる。

だから是非、悩んでいる人たちは読んでほしいと思う(このブログが読まれていればだが・・・)


1.抜本的に食事を変える

2.治療法は自分で決める

3.直感に従う

4.ハーブとサプリメントの力を借りる

5.抑圧された感情を解き放つ

6.より前向きに生きる

7.周囲の人の支えを受け入れる

8.自分の魂と深くつながる

9.どうしても行きたい理由を持つ

"困っている患者さん”は実は主治医に"困っている”!?


医療者はものの見方を時に変えた方がよいかもしれない!

あなたが頑張っている時に(困っている時に)当たり前の主治医の言葉に実は困惑しているということを。


化学療法が奏功しなくなった患者に主治医はこう告げた。「今までいろいろ治療を試みましたが、どれも改善させることができず、肝臓や骨にまでがんが転移して増えてきています。それを裏付けるように腫瘍マーカーはどんどん上がってきている。あまり時間はないと思う。そろそろ緩和ケアを考えてください。」と


医師からすると、患者の気持ちも考えながらでも事実をきちんと説明しており、通常の医療説明であると感じる。一方、患者はそんなことはない、まだ元気もあるし、死ぬなんて考えられない。やらなくちゃいけないことはまだ一杯残されている。あきらめるなんてできない。他に何か治療はないですか?」と考えている。主治医もそして看護師も「○○さん、緩和ケア病棟だと落ち着くかもしれません」とか「もう抗癌治療はあなたにはない」とか、「統計的に見ても1年は難しく、来年の桜は見れないでしょう」とか、「残りの時間を大事なことに充ててください」とか、手を変え品を変えて、会うたびに患者を説得してくるそうだ。確かに医療者からするとこうした説明は当然のことといえる。


この患者さんはいう。「私は生きたい、誰が何と言おうと生きたいの!」、「生きたいという気持ちをみんなが寄ってたかって否定して、もう時間がない、死ねって言ってくるのよ!」


この患者は文句の多いブラックリスト患者にさせらて喧嘩して前の病院をやめてきた

そして代替療法をまわり何とか頑張って生きてきた。でも腸閉塞になり元の病院にもどり主治医に「それ見たことか!」ってな、態度で言われ、怒りと悲しみに包まれたそう。「私はただ生きたかっただけ」

結局、うちの緩和ケア病棟に来たが、また同じことを言われて、もう辟易したそうな。

「私は生きたい、ただそれだけなのに、皆が邪魔をする」


生きたいという素直な気持ちを医療者はつぶしていないだろうか?医療者が逆にこの患者の背景を背負うことになったら、あなたは主治医に従う“いい子”でいられるだろうか?そして余生を楽しんで過ごせるだろうか?


私は発想を変えてみた、もしわたしだったら・・・

この人の気持ちが痛いように伝わってくる、生きたいよ・・まだやりたいこといっぱいあるもん、と。

「よし!じゃあ~頑張ろう、思い切って生き切ろう!」患者についていってみることにした。

そう、患者が医者についてくるのではない!医者が患者についてサポートしていくのだ。

この人は桜を見て、1年精いっぱい生きて、おいしい焼肉を食べた直後に穿孔して緊急入院、緩和ケア病棟で鎮静の上、生き切った笑顔で亡くなった。

この時期になると頑張っていたあの人を思い出す。


医療者は患者が主体であることをいつの間にか忘れている。確かに、人間は皆100%いつかは死ぬ。だが、すべての人が人生最期をしっかり計画立てて思うように生きられるとは限らない。私は生きたい、自由でいたいという気持ちを医療者は耳もかさず、はみ出し者としているのかもしれない。


決して意図的に医療者がこのような態度をとっているわけではない。むしろ親切にその患者さんのことを親身になって考えてくれる医療者だからこその忠告であったろうと思う。


でもその人生を生きるのはそのひとそのもの。生きたいという気持ちを信じて寄り添っていくことが医療者には大事。


どうか、医療者の経過パターンにはまりたくなくて自由に生きたいと思う人もいることを忘れないでほしい。型にはまった押し付けの人生の締め方はくそくらえ!そう思っている人は実はたくさんいる!医療者のあなただって、実はそうかもしれない、かくいう私もそう。医療者は実は"困った”患者になるかもしrれない・・・



「死は怖くない」立花隆
立花隆氏は「田中角栄研究」や「宇宙からの帰還」「臨死体験」など様々な分野で理性的に論理的に解釈を加え我々に問題を提示してきてくれたジャーナリストだ。東大の仏文科や哲学科で学んだのだから論調は鋭く妥協を許さない徹底した調査をされていることは有名である。彼は膀胱癌を患い、心筋梗塞になり2度の大手術を経て死を身近に感じたそうな。そして新たにこの「死は怖くない」という御本を世に問うた。

立花氏はそれでも死んだら終わりという考えに近いらしい。ここ10年の脳科学の研究からノーベル生理学医学賞受賞者の利根川進博士の偽の記憶研究や有名なスウェーデン・カロリンスカ研究所の研究をもとに自分の体を認識する脳内モデルの崩壊が対外離脱ではないか、またミシガン大学のボルジガン博士の研究などで死ぬ直前の脳の活動による体験が臨死体験ではないか、そしてまばゆい光の中に包まれ超越者にであう神秘体験はウィスコンシン大学の意識の統合情報理論をもとに説明を展開しています。

彼は様々な取材を通して理性的に論理的にこうした体験を推察し決して科学で証明できないものへの無条件の納得はしていない。恐るべし。

しかし彼は自分の死についてこう述べている。「結局死ぬというのは夢の世界に入っていくに近い体験なのだから、いい夢を見ようという気持ちで死んで逝くことができるんじゃないか」と。

理屈はどうあれ、信じようが信じまいが、「死はこわくない」と結論付けている。

唯物論者であっても死後の世界や天国を信じているものにとっても、痛みや苦しみさえ何とかなれば死は怖くないそうである。

緩和ケア病棟の日常は穏やかである、痛みや不安、死の恐怖に怯えるのでなければ、死は厳かに穏やかに風と共に去っていくかのようだ。


中部大学教授で言語学者の大門教授は非科学的なものは全く信用しない唯物論者であったという。それが今では人知を超えた大いなるものを感じて輪廻転生を論じている。医師としてそして緩和ケア医として私も人の死ばかり見つめてきたら、魂の存在を身近に感じるようになった。科学や人知ではわかりかねる何かを実感すると、素直にこころの奥に関心が移っていく。だから大門教授の変身ぶりはよくわかる。


さて、いろんなエピソードが書かれてあり手軽に読めるので、ほんまかいな?と恐る恐る垣間見たい人には良い入門書だと思う。


本の中の一事例かのん君は亡くなったお姉ちゃんの生まれ変わりだそうだ。魂が生まれ変わる先を選ぶことができるとすれば、過去生でつながりがあった愛すべき家族のもとに帰ってくるのは至極当然のように思われると魂の絆を紹介されている。


我々はそろそろ死後の世界や魂について、誤解や変な詮索を持たずに話し合う時代に来ているのではないか、と思う。


人は何度でも死んで生まれ変われるとしたらこの世に生きている間に何らかの生きている意義や課題があるのだろう。それに気づき、達成したらより洗練された魂に浄化していくんだろうね。


この本はお薦め


家田HPは→こちら


「がん哲学外来」は2008年に樋野興夫教授が提唱し始められましたがその後活動の場を院外に移し無料でがん患者さんとの対話の場として全国に広めていらっしゃいます。私もそうですが、樋野興夫先生に認可された人が全国で話を聴くこうした機会を増やす努力をしています。


この本は樋野先生ががん患者さんとの対話の中で得られた知見をもとに、がん患者さんや医療者に向けたメッセージになっています。


この本の中で、がんより悩ましい人間関係の章で「夫の冷たさと妻の余計なお節介」というのが出てきます。笑ってはいけないのですが、こうしたことは緩和ケア病棟でもよく見受けられます。家庭にあまり関わらずに来た夫が妻のがんにより何もできないことに気づき慌て苛立ち、妻にまで冷たい態度をとっていくリアルな状況を伝えています。一方夫ががんになるやがんに悩む夫の気持ちに配慮なく「がんに効く食事」や健康法、消化器がんなのに無理やり食べさし、あれこれつくるなど、お節介をよく観察されています。なるほどフフフ・・・とほくそ笑むところもあって、スーと重くなることもなく読めていきます。


関心のある方は一読されるによい本だと思います。


昨年12月に樋野先生に指名され、名古屋まちなかがん哲学外来を細々と開始しました。

正式には4月以降日程を出していきますが、個人的ながん相談は院内外で承っております。

こちら まで

先ずは「ありがとう」じゃないの?

川崎で起きた介護士による殺人事件をきっかけに、ここに預けて大丈夫なんだろうか、といった介護に対する不安と不信が再燃している。医療事件も起きるたびに不安と不信を増す。教育現場でも辛い警察や防衛業務にある現場でも同じようなことが起こっている。親や子供といった大切な家族を預けるわけだから安全性についてはしっかりせねばならないと思う、が・・・。

また一方で、介護や医療、教育の現場でそこに従事している人たちがいかにストレスを抱えているか!ということもクローズアップされてきた。奉仕に準ずる職における人間関係をサービスにしている分野で、ストレスが多い。「安全」という名のもとに考えられないほどの規制やチェックが存在する。少しずれるだけで、指摘しあい、インシデント/アクシデント報告、内部告発の奨励という、ぎくしゃくした関係性を生み出すことが多くなった。この数年で感じることは「ありがとう」の言葉の無さだ。昔は「ありがとうございました」、とか「迷惑をおかけしてすみません」と言われ、「こちらこそ」とか、「いいえ、お互い様ですよ」って互いに声掛けあったものだ。こうしたやり取りは儀礼の挨拶に置かれてしまい、本当の意味で感謝すべき時には逆に出てくることが少なくなったような気がする。

医療や介護、教育そして防衛や消防、警察といったところもそうだ、不信感を与えるような言動は当事者として注意すべきことは当然であるが、大切な人を頼んだり、嫌なことをお願いしたり、困ったことに助けを求める場所であるからこそ、先ずは(申し訳けないけど)「ありがとうね」の一言があれば、この種の職種はストレスは軽減するのである。

お願いする方が大丈夫かな、何かあったら文句を言ってやるといった態度で接すれば、介護職だけでなく医療職も教育職も防衛や警察、消防と言った安全を守る職にいる人には多大なストレスがかかる。緊張の中でことを進めるのは難しいことは心理的にも言われている。逆に「ありがとうね」と言ってくれさえしたら、どんなにこの職種で働いている人たちは安心して「よしがんばろう」という気になるだろうか。もともと嫌なことをしてあげるとか奉仕しようという気持ちがある職種のひとだからこそ、「ありがとう」の一言さえあれば、とりあえず嬉しいもんなのだ。

NHKのニュース深読みで「介護のストレス」を取り上げていた時に女性アナウンサーが「大切な人を預けるのだからしっかりしてもらわないと」と発言された!介護が大変なストレスだと伝える番組でだ。「大切な人」を預けるなら、「大切な人」を自分で介護してみればよい!どんなに大変なことか!とてもできないことにすぐ気づくだろう、「大切な人」に自分が手を出すかもしれない、自分もおかしくなるに違いない。いかに大変なことかという苦労を自分が知らないのに他人にそれを完璧であれと要求するのはおかしいんじゃないか。

だから困って他人にお願いするのだから「ありがとう」が先ず必要だ。「ありがとう、もうしわけないね」その一言が介護を医療を、教育を防衛を治安をそして日本全体をちょっとでも落ち着かせてくれるのに、「ありがとう」のありがたさが失われている。

責めたり指摘することの多いニュース番組のなかで「ありがとう」が入ってくれれば、どれだけこころが休まるかしれないのに・・・。

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穏やかに達観して最期を迎える人たちがいる。なぜだろうか?

ストレスが多い人生や病気を抱えると、生き生きとした喜びを忘れていき、人はだんだん空虚になっていくようだ。本来なら自分のこころを満たすという大事なことを仕事や恋愛や様々な人間関係や自然やスポーツ、勉強などを通して自分の力で埋めようとする。それがいったん難しくなるや、その空を埋めようともがき、他人から奪ったり、もらおうとしたり、躍起になっていく。

自力ではなく、もらおう、奪おうとしている限り、多分満足いくようには満たされないものだ。してくれない不満や自分を憐憫する悲しさ、ますます自分の隙間を埋めるばかりか深くしていく気がしてならない。そして顔が変わっていく。

世の中を見ていても、同じことが起こっていると、つくづくそう思う。

奪うことにより得られる満足は確かに優越感を刺激し一時的にはあるだろう。また与える行為にも同じことが言えるだろう。自分を犠牲にしてまで尽くすことも心理学的にはありうる。

こころの安寧をもたらす行為はもっと高次のレベルにあると私は思う。

達観して最期を迎える方は自助努力で埋めながらも他人の力に感謝している人だ。

我々医療者はその素直な感謝に協力を惜しまない。

自分の力と人の力と相乗効果を得て、埋められた隙間はもっと大きな満足を双方にもたらすようである。

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ある末期がんの方とお話しした。衰弱し余命は短い。誰が見ても本人もだめだと思う状況にある。その方がこんなことをつぶやいた。「心配されるということはありがたいことだけど・・嬉しくも楽にもならないんだよね・・家族っていうけど、そんなこともなかなかわからないわな」と。医療者も心配する。家族も心配する。


「心配する」ということは心配される側にとっては「あなたは悪い」ということを告げられているようなものだ。心配になるたびに「あなたは悪い」と連呼されているようなものらしい。だから心配ということはとても心を配ることではない印象を与えてしまう。


一方、心配する側はどうだろう?心配することで心配する側は義理でも心からでも一応の“心配り”の仕事はした。医療者のように医療処置を追加して“一安心“ってこともあるし、情のある家族であっても「心配」の要素の中には相手への心配以外に自分の不安を見ることがある。相手を心配するがそれは時には自分が心配なのだ。つまり相手の状況変化で自分の心が不安定にさらされるからでもある。だから心配する側は相手と同時に自分を心配してしまうのである。その比率は人それぞれだろうが、もし相手を心配して声掛けすることが「あなたがこうな風だから私がこんなに不安になってしまうのよ」と言わんばかりの状況にもなる。


私が敬愛する人間性心理学者でフロイトやユングに並ぶ心理の大家であるアドラーはその理論の中に対人関係論を一つの軸に据えているが、心配はまさにその対人関係のやり取りでは互いの勇気くじきを導いてしまう言葉だ。


ならどう声掛けしてあげればよいのか?心配することはよいが、心配する行為にはこちらの様々な思いが言葉に乗せられていくわけだから先ずこちらの感情を考慮する必要がある。声掛けはしない方がよい場合もある。うなづきやアイコンタクトだけでも伝わることは多い。かといって「思ったより元気そうだね」の対応も善し悪しである。


心配される側から考えてみるとよさそうである。この患者さんはこういったのだ。「『私の方は大丈夫、なんとか元気にやっている、心配ないよ』って言ってくれたらどんなにこちらは安堵できるだろう、私もちょっと頑張るわって気になるもんね」と答えられた。この返答がすべての人に合うわけではない。ただ相手に心配をかけないことが相手を心配してあげる本当の“心配り”であったりする。


相手を思う気持ちは複雑で微妙だ。正解がない。ある程度のパターンをコミュニケーションスキルとして蓄積はしておいた方がよいが、相手の気持ちになることはこちら側の感性を豊かにすることが私は大事だと思う。だから相手を心配しこちらが不安や動揺しているようではいけないのだが、愛する大事な人の残りがわずかな時にそうした心境にもなれないのも当然だ。対人関係は本当に難しい。互いに自己と他の区別がうまくついていない親子関係や夫婦関係では受容に至らず、後々の悲嘆につながる可能性もありうる。


心配するって難しい。


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Oリングを御存じでしょうか?

Oリングは日本人が開発した筋力反射テストですが、自分のこころ、感性を尋ねるよい機会となります(鵜呑みにはしない方がいいですが)。

Oリングは心理に応用されアメリカでは流行っているようです。2人でやる方法が本当はよりわかりやすいのですが一人法も開発されています。一人法も複雑なものと簡便なのがあります。親指と中指で行う方法は簡便ですが、意図が入り込みやすく判断しにくい面もありますし、顕在意識、理性が強くなり筋緊張が高まると、あてにはならないことになってしまいます。

Oリングの一人簡便法は少し訓練が必要かもしれません。これも自分のこころに素直になる練習になりますのでよいと思います。詳しくはネットでいろいろでていますから、どんなものか、ご存じでない方は一度お試しあれ!

リラクゼーションやプチ体験でも体験できます。



http://iedatherapy.jp/wp/relaxationab/