ちょこっとでも、マインドフルネスっぽく、してみましょう!


現実は例え変わらないとしても、こころ(マインド)をレス(満たされない状態)にしておくのはもったいないと思うよ。緩和ケア病棟の動けない乳がんの人がこういったのが印象に残っている。


「体はどうにもなんないのね・・ここ(緩和ケア病棟)にきて痛みが取れてホッとした・・・でもね、そのあとの、何もできない自分をまじまじと見ていると、悲しさでいっぱいになってくる。悲しさでこころを満たすのって辛い。でもね~悲しみが抜けていくと・・・何もわいてこないのよ・・・何にも残っていないのかしらって・・・その方がもっと辛かった。何もできないし、なにも満たされない、この虚無感っていうの?先生わかります?・・でもね・・・私は動けないけど、痛みは抑えてくれて考えることができるようになったし、足は動かせる。痛みが取れて、まもなく悲しみが生まれ、こころが冷えて動けなくなった。動けなくなったのは体じゃなくてこころが満たされなかったから・・・そう思えてくると、今、ちょっとしたことも良くも悪くもこころに留めておくの、そしてこころを満たしておくの。それで落ち着くの。」


マインドレスな状態はやはり無力を生みます。周りの状況が見えていません。刺激もなくなります。ひょっとしたら何かのチャンスも見過ごしてしまったかもしれません。とりあえず、良くも悪くもマインドをフルにしていきましょう。良くも悪くも周りを注視しているうちに、ちょっとしたなにげないことに喜びも見えるかもしれません。そうすると、刺激は良いものを取り込もうとしていくでしょう。


マインづフルネスっぽくしてみませんか?そう意識を変えてみるだけでもよいかもしれませんよ。


ひとはどんな時でもどんな格好でも気づきを得ることができます。トイレだっていろんな気づきに満ちあふれている場所かもしれません。余分なものや、できれば自分を貶めるものは排泄し、こころをフルネス(満たされた状態)へもっていきましょう。


緩和ケア病棟にはいろんな気づきが満ちあふれています。


マインドレスからマインドフルへ、あなた自身の意識が変えます、そして変わりますよ。


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不確実性を生きるとは何か


不確実性とは経済学用語である。35年ほど前に大ブームになったJ.ケネス・ガルブレイス博士の著書「不確実性の時代」に端を発していると思われるが、意思決定をするうえで、予測し得ない、コントローできない様々な事象が起こりうることを指す。


大震災はまさにその例である。経済に限らず日常の生活においてさえ、今行われていることが正しいとは限らない混沌のさ中にいる。


不確実性は自由度が増した分、不安も起こしうる。だから不確実性を生きる中で、我々は巧みにリスク管理を行ってきた。起こるか起こらないか、期待値を予測し、予防手段を立てれば、安心だからだ。確率や検証などを通してエビデンスを打ち立てて、医学は不確実性をできるかぎり削ぎ落しその恩恵を得ている。


しかし注意することは、経済に翻弄される今の医学においては、エビデンスやマスデータは参考になる指標ではあっても、個人に必ずしも当てはまるものではないということを認識しておかねばならない。特に人間の心理や生活においては特殊性や個性、多様性があるために適応させることは難しい。


だからといって、リスク管理の下、安心で過ごそうとするのもよいかもしれないが、そこに自分を置いたとたんに自由は奪われる可能性を認識する必要がある。例えば、入院という手段を選択すれば、自ずと自由を引き換えにしなければならなくなることは容易に理解できるだろう。



逆に不確実性がもつ自由度に希望を見出すなら、それもよいかもしれない。在宅療養に切り替えれば自由はあろう。だがやはり不安も増す。


家族体制が崩壊している現代では、在宅と入院の二者択一ではない、新たな療養形態が生み出されつつある。


不確実性の時代を生きるとは、不測の事象に留意しつつ、リスク管理と自由の双方を使いこなし、個々により良い選択をしていくことであり、一人一人が知恵を発揮すべき時が来ていることを示唆している。

がん患者さんの会に行くとこころの持ち方が人によって違うことにすぐ気づく。
諦めていない人、迷っている人、諦めている人。

迷ったり諦めている彼らと話をすると、自分の劣った点をボロボロ出す一方相手の自分よりいいところを良く見つけ出す。そして時にはがんになっていない人にはわからないという自分たちの“村”意識に入り込もうとする。

確かにがんでない人は根本的にがんの辛さはなってみないとわからないものだと思う。それだけ人生の大問題だからだ。

がん患者3000人に関わってきた経験から、人の幸せって何だろうっていつも考えてしまう、どうしてこの人は穏やかで苦しまれず安寧に最期を皆に惜しまれながら逝くのだろう、一方でどうしてこんな苦しくて、或は嫌われて最期を迎えることになったんだろうかって・・・これは私の永遠の課題の1つと言える。その経験でいえることは、苦痛をなくすことはできないことと、苦痛をなくしたとしても幸せではないということ、苦痛があっても上回るだけの価値ある何かがある人は幸せであるという事実だ。がんをもちながらも幸せでいる人は何かを持っている。少なくともお金ではないし、宗教でもないことは確かだが、家族とも断定できない何かだ。なんだろう?

崇拝するチクセントミハイ博士やセリグマン博士らが提唱するようなポジティブ心理学では社交性ともいえるが、日本人は何か違う気がする。セリグマン博士が学生だった頃の有名な話はご存知の人も多いだろう。ネットで見ればすぐ出てくる犬の実験で、電気ショックを与えると柵を乗り越え隣の安全な場所に飛び移る実験を繰り返しているうちに、電気ショックで柵を乗り越えず電気ショックを受け続ける犬が出てくるという話だ。これは何度も不快な苦痛を繰り返しされ、逃げてもまた同じ実験をさせらえ無力になっていくという失敗談から得た心理実験に気づいたセリグマン博士の逸話である。

昨今、リストラさせるにはうつ病にさせる方法があるとネットで流して話題になったことがあるが、まさにそのことが現実にも起こっている。

もう、不快な苦痛から逃げられないとあきらめると絶望と無力の中に落とし込まれるわけだ。
「諦める癖」をつけさせるのは誰か、がんであり、時には医師でもあったり、家族であったり、そして最も関与しているのが自分自身だ、自分のこころだ。

だから、話を元に戻すと、「諦める癖」のある人は少なくとも幸せとは言えない。がんをもつことでそのショックは人を圧倒してしまう。あっという間に意欲の低下、絶望、無力に追いやるのは確かだ。落ち込みから回復できないほどの状況もよくわかる。ただ最期を幸せに逝った人をよく見ていると、無謀とは言えない回復力を着実に養っていることがわかる。へこたれないのだ!

彼らから教えてもらうことはいくつかあるが、がんにならなくても人生を乗り切っていく上で必ずいくつかの苦難を乗り越える希望の方法を教えていただける。それが今はやりの「レジリエンス」。

「諦めない」ということではないよ! ちょっと違う。希望は否定語ではないんだ!絶対に。希望は乗り越える先に必ずある。

だから少なくともまずは「諦め癖」があるならそれを突破らっていこう。

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物事につまずいた時、一般に誰でもその場から逃避したいという思いが頭をよぎると思う。その次にとる行動は人によって或いは状況によって変わるだろう。その判断はむずかしいね。是か非か決めれない。
ただ、やみくもにアタックすればよいわけでもない。それは無謀といい、無茶ともいう。一方いつも退却している場合、安心ではあろうがそこに発展はないだろう。残念ながらいつも撤退を考えて突破の糸口を狙ってもいない者には幸せな達成感や満足感は味わえない。

そんな時こそ、マインドフルネスの出番!

一般者編8で述べたように、顕在意識では判断に迷う時スティーブ・ジョブズがやっていた瞑想だ。無謀、無茶を抑え、安全策に逃げ込む弱気をつぶし、内なる自己の声に耳を傾けると聞こえてくるお告げのようなものだ。

壁にぶち当たった際に行動回避すべきか判断に迷う時のために日頃からマインドフルネスを意識しておくとよいかもしれない。
この世知辛い世の中に生きていて、堂々と人生や事業を展開している人はすごいね。場の雰囲気やちょっとした言葉で傷ついたり傷つけたりで、またいちいちそのことで悩んでしまって、やっぱり俺って駄目だなあ~なんて思ってしまうひとも私だけではないだろう。

こころを落ち着けてみようといろいろ試した結果、私の場合は原点の瞑想にあった。

中学2年から見よう見まねで親父の物まねから始めた座禅だが、瞑想らしきものとして始めて40年。ちっともこころは落ち着かず、動揺してばかりだったが、催眠療法を学んでもう一度こころの奥底を垣間見る機会を得てからやはり瞑想の良さを再体験した。今、いろんな機会で自己の気づきを促す瞑想の類を伝えている。日本古来の瞑想もアメリカから逆輸入されたマインドフルネスも催眠療法も自律訓練法も基本は同じだ。

マインドフルネスは鈴木大拙師がサンフランシスコ禅センターで広めたのが発端であると思うが、アップルのスティーブ・ジョブズがあのパソコン開発にも有用であったとしてからアメリカのセレブに広まった瞑想法だ。

催眠療法やマインドフルネスは宗教的な制約はないので、楽な姿勢でリラクゼーションから始めればよい。ゆったりとした楽な呼吸をただ繰り返すだけでも心は落ち着いてくることが今証明されているらしい。楽な腹式呼吸を無理なくするにはリクライニングでもたれかかって座るのが楽な腹式呼吸をもたらす。私も経験したが座禅は痛い、情けないといえばそうだが・・・。次にいろんな音やいろんな雑念が浮かんで来たら、逆にしめたもの。自分の感情や感覚もまるで他人事のように傍観しながら見つめながら自分の内に内にすすめていく。初心者はここが難しいところだが、雑念や音が気になりだしたら自分の呼吸に注意を向けると入りやすいだろう。自分の吐いた息、吸った時にのどや気管に入り込んでくる空気の感覚など、そこに着目する。

自己と他の区別が消え去り、一体感のなかに自分の意識はいながら消え去ったかのような瞬間を味わえたら、洗練されたピュアな感覚に圧倒されるかもしれない。

さて・・さらにさらに自分の内に入っていこう。時間の感覚がなくなる世界へようこそ!
自分で難しい人は訓練のみ・・ではなく催眠療法で誘導してもらう手もある。実は一生懸命勉強や仕事を集中している時に時間を忘れて朝だったという時もこれに近いかもしれない。

マインドフルネスは「今ここに」気づきを得るが、自己と他の区別があるようでないような世界もそれはそれでよい体験になる。

こころが動揺する時には、そういう時だからこそ、一瞬でもこころを静める方法をかじっておくとよいかもしれない。

リラクゼーション

私どもの緩和ケア病棟にはいくつかのすご技がある!リンパマッサージだ!!

施術してくださるのは元看護師長。長年の経験からくる熟達した彼女の手にかかったら催眠術みたい、スコンと眠ってしまう、気持ちよくて・・・この方もイチコロだった。リンパ浮腫でパンパンの腕も優しく揉み上げる彼女の技でやわらかくなって軽減していく、おまけに気持ちよ~く、こころまでも癒されてしまう。

こういった「職人技」は貴重だ。

昨今緩和ケアがいろいろととりだたされているが、マニュアル本ではなかなか得られ難い、こうした昔からの緩和ケアの職人魂や技術が、実は緩和ケアの質に大事なんだ。結局はひとなんだ、その人の持つ知識、技術、こころに基づくケアが提供できるかが大きいといえる。

エヴィデンスに基づく医療ももちろん大事だが、サービス業や科学的に実証が難しい分野ではエクスペリエンス(経験)を大事にしていく必要があると思う。

彼女に感謝!

緩和ケア病棟はこころある人たちの支援で成り立っている。今日はお花を届けてくれた人、癒しの音楽を届けてくれた人たちがいる。新鮮な音楽と輝くお花たち。そしてそれを届けてくださった方々の思いに感謝をお伝えしたい。どれほど苦しい中で生きてこられた患者さんもこうした癒しの提供にほっとこころをなで下ろす。

人のこころを癒してくれるのは、愛だと思う。

言葉を伝えられない患者さんたちに代わって、ありがとうと感謝を伝えたい。

こころからありがとう
がんで逝くという緩和ケア病棟というある意味で特殊な環境での緩和ケア医師の関わりについてお話をさせていただきます。

所謂普通の医師と同じようにがんの症状緩和や治療といった役割も致しますが、スピリチュアルな面での関わりがその専門性の1つにあります。

死という現実的な時間の終焉はがんの方には設定されている中で、その人自身がどのように変容していくかを見守りつつ、先ずは今生の人生を振り返り、今生の課題に気づきを得ることを促し、その人自身のレベルに応じその人自身が到達するなんらかの目標(これは死ではない、今生のたどり着くレベル)を自ら達成すべく、緩和ケア医師は支援をしています。

その人自身が自身の人生を振り返り、人生に何を期待されていたのか、何らかの意味があったのだろうか、と自問する状況が訪れた場合は、何らかの気づきが得られることがあります。課題が確認できた時点でほぼできたかできなかったかに関わらず、自分の意義をそこに確認できたわけで、それだけで先ずは満足を得られるように感じます。

残りの限られた時間の中でその課題のまとめをし、提出できるかどうかは人それぞれです。死はそれで終わりではなく生まれ変わって新たにまた課題を与えられるのかもしれないとすると、永遠のスパイラルに陥らずにその人生でできれば完結しておきたいと思われるし、気づきと達成をなすことでより高次のレベルに進んで安堵できるのだと感じます。

そうやって世界には様々な次元のひとが同じ時間同じ地球と言う場所で切磋琢磨しており、洗練したパーソナリティーに進化する相互扶助を行っているわけです。緩和ケア医師でなくても何か資格がなくてもこれはできることでありますが、死を間近で見つめている緩和ケア医師(昔は僧侶であったり戦時は誰でもその可能性があったのでしょうが)であればこそ、この支援が役割としてあるように思えてなりません。

世の中には嘘や暴力が蔓延し、正義や真実を覆い隠しているようにも見えます。信じられるものは自分だけと思ってもその自分ですら信じることが難しくなることもあり得ます。自分自身では達成が困難であったり、支援を得なかればどうにもならないことはいっぱいあります。困難や煩わしさ、がんや認知症などの病状によっては他人に委託せざるを得ないし、家族とはいえ他人に自分の今後を託す状況は致し方ありませんが、中には意図して自己決定権を放棄したり委ねたりする人もいます。こうしたケースは残念なことですが、意思決定は基本的に自分で行いたいと普通は願うものです。自分の今生の課題やその達成度合いを設定し確認するのは自分自身で他なりません。自分の判断が間違いであっては問題ですから、そうすると自分の何を根拠にすべきかがわかります。自分が当てにならないのならどうするか、でも他人には譲れないとしたら、自分を洗練成長しかありません。その相手は自分の内なる自己そのものです。内なる自己は自分であって自分でない、もし何代も課題を克服するために続いているとしたら、自分の中にある魂のそれそのものであるといっても過言ではないでしょう。自分の内なる自己は未完成の魂です。そこを磨けば大いなる気づきと達成を得て洗練された高次のレベルに進化するとしたら、これ以上の満足はないのではないでしょうか。

緩和ケア医師のスピリチュアルケアはその人自身の魂の達成をその人自身が達成できるように支援することであると感じています。

「他人のこころの中が私にわかるか」という問題は精神病理学や哲学に限らず大きな難問の1つである。


ユングは個々がバラバラな状況ではなくアカシックレコードを共有する関係性が無意識の中に存在し情報も自分に限らず獲得でき、共時性の現象を説明した。日本の精神病理学者で精神科医の木村敏先生は「あいだ」という概念を展開し、人は元々の共通する「あいだ」から派生したものだからこそ、わかりあえるのだと記している。一方で他人のこころの中がわかるとして、その理由については違う意見もあろう。心理学の中では、他人のこころの中は決してわからないので、自分の意識の中に他人を写し出そうとしてその偽の「他人のこころ」を構築し現象させ理解したつもりになっていると考える人もいる。構成主義的に言えば部分を総和したからといって全部が映し出されるわけではない。だから結局はわかりあえないとなる


どちらもなるほどと思えるのだが、現実はどうか、不思議なことに、分かり合えることがある。言葉を介さなくても意思の伝達は可能だ。情報量が少ない場面では言葉はいらないことも多々ある。そこで顕在意識の上ではコミュニケーションが重要な役割を演じることになる。


催眠を勉強している人は、このわかりあえるという感覚をどこでとらえるかというと現象学で議論される健在意識ではない。ユングは自分の降霊体験や臨死体験から無意識(潜在意識)の深さに着目した。彼にとっては無意識の中に他人と交流ができる共有の世界があり、だからこそ他の人にもそれが伝達可能だと考えたようだ。この考えをベースに催眠療法が編み出されて来たと考えている。 潜在意識の中でもコミュニケーションは必要だ。潜在意識だからこそ言葉を介して相手の世界とこちらの世界が共有していくチャンスができる。


他人のこころの中がわかるかという答えは当面正解は出ない半永久的な問題であろう。だが仮説としてもすでにコミュニケーションで分かり合おうとしている。なぜなら異文化や異人が行合うようになった近代は分かり合えない時代であったからこそ殺戮が繰り返された。わかりあるか?の答えをだすことも大事だが、我々の時代にもまだまだ残されたこの課題の意味は、答えが出なくても「分かり合える努力がいる」ということなのである。

ある病院で講演をさせていただいた時に、「何も悪くないのに、とっさに怒られたり泣かれたりした時戸惑うんですけどどうすればよいでしょう?」と質問があった。お話をもう少し聞いていると「その場その場の対応は本や雑誌で具体的に出ているんですけど、必ずしも同じようにはいかなくて・・逆に相手を怒らせたり、あなたなんて知らない!と逆切れされてしまうんです」と。

よくありますよね。皆さんどうしますか?

ちなみにとっさのコミュニケーション技法はいろんなところでいろんな対応の仕方を伝授しています。心理学手法を理解されて使っている場合はいろんなバリエーションに対応できるのですが、いくつかのパターンで覚えているような場合は同じようなケースでないと当てはまらないのは当然です。
ですから、第三者(夫婦や親子ではできないが)が突然感情をぶつけてきたケースの大まかな対処(コーピング)の仕方、流れを押えておくと良いかなと思って、お答えしました。

①まずはキャリブレーションします
 キャリブレーションは簡単に言うと相手を観察することです。突然感情をぶつけられるとこちらは驚きとともに普通は防衛機制を整えます。たとえば怒り返したり泣いたり文句を言ったり・・こうした反応はとっさに出たこちらの感情ですので仕方ないのですが、大事な顧客であったり先輩などにはあとあと困りますよね。かといって、こちらがおとなしくしているとストレスがたまりどこかで発散しなくてはいけません。観察する良い点は先ずは1つに相手の突然の言動を観察(心の中で「あ~なんか怒っているなぁ~と傍観者的に眺める)することで時間差が生まれ、こちらが即反応せずに(つまり怒ったりせずに)待つことができます。2つ目は観察することで相手の表面的な言動に振り回されることなく客観的にその背景にある感情(これを1次感情と言います)に気づけたらしめたものです。そこに気づくとそれを味わう余裕ができます(あ~この人、こんなことがあったので悲しくて怒っているんだ~とかね)表面的な言動の背景の1次感情に着目すると、たいていの場合、次に進むことができます。もしこれが相手が突然文句を言ってきた時にとっさにこっちも怒ったら、そこで問題の本質に気づけずに互いに怒りのぶつけ合いと言う負の連鎖に入っていきますからね。キャリブレーションしているうちに相手が理由を言ってくることが多いので(例えば「上司がこんなこと言ってきたのはあなたのせいよ」など)、その指摘通りならごめんなさいですし、違うなら反論の機会ができます。ただここでその通りに反論してしまうとまた負の連鎖です。そこで次のステップに移ります。
②ペーシングです。(ここまでは会話のうまい人はできてしまいます)
できれば早めにキャリブレしながらペーシングを入れると良いと思います。ペーシングとは相手のしぐさをまねたり好印象を与えるためによく使う技法です。同じしぐさをしていると同病相憐れむのように同調が起こり始めます(ただし上下関係がある場合は相手と同じように偉そうにしていると逆効果です)。相手の1次感情に焦点を当て共感しながら(「そうなんだ~辛いよね」など)相手の言葉を繰り返して会話を進めさせるとより細かい情報が入ってきて、とっさの表面的な言動の理由など背景がわかり始めますので、こちらも(そういうことか)対策やアドバイスが立てる時間ができます。
③ラポールです。ラポール(信頼関係)を作らないうちにことを進めると失敗する(よくあるのは個々の時点での失敗)
ペーシングしていくうちにだんだん信頼関係が芽生えてきてこちらの意見にも耳を傾けてくれる余裕が相手に浮かれてきそうです。ラポールができると相手が(ごめんね、突然こんなこと言って・・とか、怒ってごめんね、でも聞いて欲しかったの・・など)今までと違った感情で対応することに気づきます。
④リーディング
ラポールができたなっと思ったところでペーシングの会話からリーディングに持ち込みます。
リーディングとは相手が望ましいと思った変化に相手自身が感じ気づき、自分自身でその方向に自分を促していくことを支援する技法です。ここまできての失敗は良い提案をしたつもりが、相手をまた憤慨させて「そんなんじゃないのよ!やっぱりわかってくれない」ってことにならないようにする注意が必要です。こちらの思うように持っていこうとするとまず失敗します。お任せしますといった場合は誠意をもって邪心なく良い方向に引っ張っていくだけの力と余裕がこちらにない場合は後で「やっぱりダメな奴」などと思われてしまいます。お任せではなく相手自身がその方向に目を向け動くことが必須です。これって難しいことですけどこちらに動揺や良くない感情や思いがあると失敗しますが、冷静に①②③までこれると相手の意図を組むことができ相手の言葉から相手が思う方向性を感じ取りそれを促すことが可能です。「私はいつもこうなってしまう」ときたら「こうなるとは今回のようなこと?具体的に言うとどういうことかな」などと相手の本質に近づける言葉をいれていきます。そうすると「こんなこと言われるとどうしても言い返せずにその時は黙ってしまってあとからフツフツとやりきれなさがつのってわあーってなっちゃうのよ」など、相手が具体的な事例を出してきます。それでわかるところまできてこちらにも相手にも何かしらのアイデアが浮かびそうになったら、「いつも言い返せずにストレスが溜まってどこかで一気に発散してしまうってことかな」などともう一度ペーシング(オウム返しの技法)して相手に自分で解決策を思いつくようにリーディング(勇気づけの技法)をいれます。すると「そうか・・言い返せずにいるからストレスたまるよね、そこで言い返すことができたらいいんだけど、私にはそれができないからストレスたまってあとで切れちゃうんかな~」などと返ってくるとしたら、もう相手は解決策を自分で見つけられる一歩手前ですよね。「そこだよねー、その場で対応できたら後々に響かないもんねー」などと一押しします。すると「これからはなにかおかしいな違うかなと思ったら勇気をもってその時に言ってみることにするよ、ごめんね、あなたに文句言ったりして・・」となれば解決策を自分で見つけて誰のせいでもなく誰に負い目を負わさずに、完了できるかもしれません。
①②③④この順番を基本に間違わずにその場その場で繰り返しながらいけば、とりあえずいろんなパターンを覚えなくても何とかなるでしょうし、自分も嫌な思いをせずに逆に相手に申し訳ない、ありがとう等の気分も起こさせて解決ができるかもしれません。
注意すべきことは親子関係や夫婦関係ではラポールあり方が違うのでこの方法はうまくいきません…と思います。
Dr.家田のHPはこちら