(「その時」は自分では決められないものだと私は思ってるんです…からの続き)




極々個人的な思いを吐き出させてください。


もしも私があの頃言われた余命通りに命を終えていたとして、悲しんでくれる家族や友人はいる(だろうと思いたい)けど…でも、そもそも誰かを亡くすことはマイナスばかりなのかな?誰だってみんな死ぬことは決まっているのに。

できればしなくていい経験だなんて言うのはそんな経験をした事がない人の言うことのように思います。


誰かを亡くすという経験は、自分を大切に生きて行けばずっと持ち続けられるものだ。しまい込んでしまえばくすんでも行くかもしれないけど、時々取り出して磨いていけたら宝物にも…なろうがー。


そう思えれば、自分を終えることもやっぱり尊いことで恐れることでもないと。むしろ必要なことだと私には思えて。




他のブログで誰かも書いていたけど、正義ってひとつとは限らない。

30代の頃私が初めて会った移植担当の医師は、

「これをすれば生き延びることができますよ!」

「私たちにはそれができます!」

「できることがあるのにそれをしない選択はないでしょう!」

的にグイグイ来る先生だったので、その場で余命宣告をされたにも関わらず笑いを堪えるのが大変でした。


と同時に、みんなが生き延びることを望んでるという前提の世界なんだなと改めて知りました。


臓器移植って、薬で治すとか悪いものを切除するとか痛みを取るとかの治療とは違う。誰かの臓器がなければできないものだから、考えてしまう。

もともと取り替え分なんて持って生まれて来ていない。自分のものが駄目になってしまったら、それでおしまい、っていうのが正しいことだと思っていました。


駄目になりつつある私の臓器に対しても、その原因を憎む気持ちよりも、どうしてそうなっちゃったのかはわからないけれども大切にできなくてごめんという気持ちでした。

だから、肝硬変の行先を受け入れることは私にとっては自然なことでした。




ここまででも十分長くなっていますがもうひとつ、ある時の入院で同室になった患者さんの話を書かせてください。


その女性(50代くらい)はかなり悪い状態で運ばれてきました。元の原因はわかりませんが10年ほど前に脳死肝移植をされた方だそうです。

数日後、ずいぶん体調も戻られてご自分で話しておられたのですが、「脳死の男性から肝臓をもらった」

「ラッキーなことにサイズも合ってそのまま丸ごとで移植したので予後も楽だった」「死ぬと思っていたのにラッキーだった」「おまけの人生だからいつしんでもいい」「だからもらった命で好きなように生きるの!」と、お酒も飲んで禁止されてる食べ物も食べるからこうやって体調を悪くして度々入院していると。

そう聞いた私は勝手に悲しくて虚しくて、そういう考えで生きてる人もいるということを理解はするけど自分はなれない。

ますます臓器移植って「可能だからしていい」ってことじゃないと思ってしまいまして。