私達が共生を意識していく上で、切っても切れないのが生活文化の違いです。
イギリスと日本では、同じ人間でもやはり文化の違いは大きく影響していました。
犬の違いというよりも、「人の違い」はトレーニングでの指導や価値に関しても違いが出てきます。
イギリス人の暮らしの中で、やはり教会の存在は大きいように感じていました。
チャリティーが文化として浸透しており、保護活動にしても、教育活動にしても皆が共通してチャリティーが学校教育でもあり、それが大きな意味で活動のしやすさはあるように感じました。
そして精神性(スピリチュアル)と宗教性の区別が出来ていて、それらが生命観も共有しやすい。
これが日本となると非常に犬への教育にも難しさを感じるところでもあります。
道徳教育も消えつつある今、私達人間側の共通となる価値観が少なくなっていること。
むしろ、物質的価値が尊重されていて、精神性や生命観に関することは何故か避けてしまうような傾向にある。
イギリス以上に可愛そう・・という言葉に対しては強い反応をしめしても、可愛そうではないようにするための教育や道徳観による行動は低いように感じます。
こうした人間性の狭間に挟まれて、イヌはイヌとしての生命として成長していくなかで同じ人間でも文化や精神性や道徳観の違いによって、バラバラの中で生活をする。
むしろ物質的価値観が優位な日本では、人間側の快適性が重視され、モノのように放棄されていく。
犬を迎えるということは、”命を育むボランティア”というイギリスの価値観と、癒しという自分たちのみの悦楽を満たすために迎える日本の価値観では、大きな違いが出る。
元々、日本人はスピリチュアルを自然に価値観として大切にし、自然を大切に生きてきた文化がある。
しかし、戦後に大きな価値観の変化があり、私達は見失ってしまっている。
でも、どこかでそれを認めたい・・だから命を迎え、保護するという人たちもいるのだと思う。
ドッグトレーニングは哲学でもあるし、道徳でもあり、精神性が強いと思います。
だからこそ、その国の文化と犬が共生できるように共育していくのが家庭犬トレーニングだと思うのです。
物質的価値から精神的価値への転換が人と犬の共生の中で切っても切れないように感じました。
イギリスでは受け入れられる方法も、日本人にはそれが良いとは言えなかった。
それで私は英国式をとりいれて指導してきたが日本人には良いとは言えないものでもあった。
そうしたことも含めて、犬への教育は共通していても、文化、生活対応は国によって異なることがトレーナーが意識していかないと行けない部分だと思います。
良い悪いではなく、何が必要か?そこを大切にトレーニングを人も犬も共生のために当たり前にならないと生命の尊重はやはり始まらないと思います。
日本に犬への教育の必要意識が高まった時、きっと命の物質的価値から精神的価値に転換した時だと思います。
命、生きる・・今一度、イヌを通じて私達が取り戻すトレーニングが日本には必要だと感じました。
そうした意味で、海外に行く、異国で学ぶということが大切だということを感じました。
井の中の蛙にならないためにも、やはり地球を見ることは大切だし、何を育てるのか?を自分がしっかり芯をもって教えるために必要に感じました。
