禅語に「卒琢同時」ということばがある。
私自身、いつもトレーナーを育てる時に大切にしている心の軸としていることの一つです。
卵の中から突くのと、外から突くのと阿吽の呼吸で合わないとずれたら生きてはいけない。
教え事は、まさしく「卒琢同時」そのものだと思う。
私は25歳に脳の手術を受けるまで、丈夫な体で大きな病気もせずに過ごしてきた。
しかし、この手術を境に、私は病気続きの日々を送っている。
この病気に、私はすべて意味があると思うし、気付きへの大切な教えだと思っています。
だんだんと体が想い通りに動かなくなっていると同時に、自分の「我」も動かなくなっている。
だからこそ、この病気は私への教えでもあり、無意味ではないということだと思う。
そう思った時点で、病気ではなく、「学び」だと思うのです。
私はトレーナー育成をする中で、古い、科学的ではないと言われるかもしれないが、昔の知恵を大切に今も教えています。
教えてほしいと欲するあいだは、あえて教えないという教えをする。
これも卒琢同時だからです。
意地悪をしているのではなく、相手のために「教えないという教え」を教えているのです。
何故そうするのか?
教えてもらうということは、その先生の血と汗と涙の結晶である命そのものを頂くという相手への敬意とその重さを大切にしないといけません。
指導者は、相手を思いやる心を持っていないといけませんが、欲しいと欲している時に教えることは、その教えの重さ、相手の努力を知ることなく、自分の知識を高め名誉のために欲しているその心を持たせてしまう、相手を思いやる心を忘れさせてしまうことを、教える側がしたことになるのです。
教えるということはそこまで考えて教えることが、思いやりになるのです。
だから、科学的がすべてではなく、日本人が大切にしてきた知恵は今こそ生かす時なのです。
このデジタル時代に、私は今もこうして教えています。
教えるとは、習う側と教える側の阿吽の呼吸が整った時にしか教えられません。
習う・・色々な考え、知識という我欲で色が付いている時は「習えない」のです。
真っ白な心で祓われた素の心を持った時に、教えると習うが教習という一体となって生きるのです。
私の教え子(弟子)たちは、こうして魂と魂の繋がりを大切に育ててきたので、私は信頼し任せられる家族のような存在になります。
こうした時代だからこそ、心を見失わずに教える習うことを大切にできる指導者を育てていき、またそこから多くの方の心大切にできる教師を育てたいと思います。
IDTA東海支部のトレーナーたちはそんな心を受け継いだ素敵なトレーナーに支えられ、本当に感謝と幸せを感じます。これがまた飼い主さんに卒琢同時で繁栄することを願っています。
日本人の教えは、世界一だと私は思います。
誇りをもって、これからも素敵な家庭犬という人とイヌの共生を築くための教師を育てていきたいと思います。
