こんにちは、さあ、長い休みも今日が最後(^-^)、楽しめましたか?
でも結構「なあにもしなかった。」という皆さんも多いようです、それもいいじゃないですか(^-^)
私は数年ぶりで父の里を訪問しました、「五木村」というところです、どちらかといえば追悼のような地味なお休みでした(^-^)
今は村の様子も大きく変わり山々は昔のままですが道路などは整備され通いやすくなっています。そこで考えるのは父親の事。
私の父は言葉少ない人で自分の事も含みあまり話す人ではありませんでしたが、無くなる前に「〇〇に贈る」と題して一冊のノートを私に残してくれました。そこには父の人生がこと細かく記録され、あとで考えれば「だからだったんだ。」と考えさせられる記述も多く残されたノートでした。もちろん今も持っています。
話は変わりますが、私は30代のころ宗教でとても悩んだ時期がありました。宗教というより「人は何処に行くのか。」ということです、もちろん亡くなった後の話です。無とありますから何処ということもなく、意識もなく。でも識には九の段階がありそれは自分にもわからない、とありますからわからない何かがあるのは事実でしょう。
産まれてくるのは必然の事、深く考えればそこにも縁があり産まれてくるわけで、そう考えれば生き方や考え方もすでに決められている、というふうにも考えられます。
誰に決められているのでしょうか。生まれた後の事は自分で決めることが多いですが。
考えたところで宗教家でもない私などにわかるはずもありませんが(^-^)。
一族とか家族とか、族という言葉にはかなりの説得力がありますが、そこには私も知らない人類創生からの族の歴史があります。その流れの中での当体が今の自分です。
他にもいます、通り過ぎる知らない人はもしかしたら数百年前は一族で親戚だったかもしれませんね(^-^)
こういうことを書きだすと長くなりますね~(^-^)すいません。
私の父は三十数年前に亡くなりましたが、私は自分の中で父が生きているように考えています。24時間いつも一緒です。俗にいう地獄を見るも天国を見るも一緒です(^-^)。
母も一昨年なくなりましたが、母も同様です。子供も大きくなりましたから次への繋ぎもおわり、子供たちはそれぞれにパタパタと今日も飛び回っています(笑)。
長くなりますので今日はこの辺で、、。読んでいただいた方、ほんとに申し訳ありません、ありがとうございました。