前回の続きです。
筑前大野城から坂を下り、
大宰府阯に行く途中に、
岩屋城があります。
今回は大野城つながりで
この城を紹介します。
車で
四王寺林道を下ると
途中に岩屋城跡があります。
岩屋城本丸への入口です。
登ると
この上が本丸です。
Googleで見た岩屋城本丸跡です。
歴史
築城は天文年間(1532~ 1554年)に、
大友氏の武将・高橋鑑種と伝えられ、
立花城と共に大友家の筑前支配の拠点
でした。しかし、高橋鑑種は主君・
大友宗麟のキリスト教かぶれに憤って、
反旗を翻したために城を逐われます。
大友家の宿老吉弘鑑理の二男鎮種が
高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種」
と名乗り宝満・岩屋の両城主となり
ました。
天正13年(1585年)に立花城主の
立花道雪の死去後、高橋紹運の長男
統虎が道雪の養子として立花城主と
なり、次男の統増が高橋家の本城で
ある宝満城に入城して、一族三人で
大友家の筑前での拠点防衛に当たり
秀吉の九州襲来を阻止する島津氏が
総勢2万にも及ぶ大軍で攻め寄せ、
周辺の国人達も、島津の配下となり、
総勢約5万の大軍になりました。
島津氏は大宰府政庁跡の東隣にある、
観世音寺に陣を設けました。
紹運(高橋鎮種の出家後の戒名)は、
七百余名と共に岩屋城に篭城。
太宰府市作成の岩屋城です。
中央に大手道があります。
鉄砲を撃たれて、なかなか
攻め上がれませんでした。
この反対側は
太宰府市作成の岩屋城です。
2週間の間籠城し頑強に抵抗しますが、
各出城や砦が次々と陥落、虚空蔵砦
(二の丸)を守備する福田民部少輔
も討死することになり。また城主の
紹運も自ら薙刀を取り敵中に入り、
17人の敵を倒したが力尽き、敵陣に
矢止めを乞うたのち、高櫓の上に登
り自害。残された将兵もあとを追い
玉砕して全員763人戦死、天正14年
(1586年)7月27日に落城します。
紹運が高櫓の扉に書き残したとされ
る辞世の歌は、「屍をば岩屋の苔に
埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべ
き」
秀吉の援軍が来るというので、戦意
が衰えなかったのでしょう。
島津方の被害は戦死約3700人でし
た。
ユーチュブでにわとりchさんが
UPした動画です。(約10分)
島津方もこんな小さな城で2万人
のうち、主力兵約2千人も失い、
秀吉の軍が来ると、宝満山城・岩屋城を
捨てて、鹿児島に撤退しました。このた
めに島津氏は九州を制覇出来ませんでし
た。
長男がいた立花城です。(GoogleMap)
四方が断崖で守り易い城です。
本丸からの風景です。
大宰府が城下町でした。
本丸
本丸の石碑です。
今回はここまでで、次回に続く
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