伊賀上野城藩校崇廣堂  1 歴史 | みどりの木のブログ

みどりの木のブログ

1日おきに更新しています。

今回から伊賀上野城藩校宗廣堂の紹介です。

伊賀上野城については8年前に、

下の更新の1から6回で紹介しています

 
なので、今回からはその藩校であった
崇廣堂の紹介です。
1回目は崇廣堂の歴史です。
 
1821年(文政4年)に伊勢津藩
第10代藩主藤堂高兌(たかさわ)
の時代に、伊賀・大和・山城の領
地に住む藩士の子弟を教育するた
めに、津の藩校有造館の分校とし
て造られました。
 
藤堂高兌の肖像画
 
藤堂高兌の墓
藤堂 高兌(とうどう たかさわ)は、
伊勢津藩の第10代藩主。
1806年に父である津藩主高嶷が死去
した。そのため、1806年10月12日、
久居藩主であった高兌が本家を継い
で、津藩藩主になりました。
高兌はまず、藩内における支持を得
るため、綿服を常に着て、質素倹約
を自ら率先して行なった。自らの生
活費などの出費を切り詰め貯金し、
10年後には1000両以上の貯金を築
き上げたとまで言われている。この
ため、高兌に反発していた家臣も、
その政策を支持することになり倹約
にも努めたと言われています。 
高兌は政治手腕にも優れていたが、
教養人・文化人としても優れてい
ました。津藩は大藩(32万3千石)
であるのに、それまで藩校がなく、
有造館が創設されたのは高兌の時代
のことです。高兌は有能な人材を求
めて、有造館の他にも崇廣堂、善正
寮、有恒寮などを創設し、藩士子弟
はもちろんのこと、領民にも教育の
奨励を促しました。この藩校創設
のとき、高兌は津阪東陽を登用し
て、国学や兵法、武術、洋学、医
学、西洋数学を取り入れました。
 
現地で頂いたパンフよりの扁額
1821年津の藩校有造館の分校
として造られました。
藩主藤堂高兌が特に懇請して、
米沢藩主上杉鷹山に書いてもら
っています。「崇廣堂」の意味
は、中国の「書経」周官の中の
「功崇惟志 業崇惟勤」からと
ったものです。「長く久しく高
い理想をもって、広く深く学業
につとめる」という意味です。
 
扁額の裏書きです。
藤原治憲とは上杉鷹山のことです。
 
伊賀上野城の地図です。
藤堂家の分家の跡に造られました。
 
初めは右側部分だけでしたが、
後に溝の左部分に、武芸場の方
も造られました。
 
講堂は開堂当時のもので、
現在もこんなに残っています。
他藩の藩校でもこんなに残る
のは珍しです。
 
現在の表門付近です。
 

「いいね」押したときは、

ブログ村・ブログランク

も押してあります。

読者募集中、

読者登録はここのリンクです。

希望があれば読者(フォロアー)様

相互登録をします

3日おきに後午後8時半~9時頃に

更新してす。
登録では「相手がわかるように」に

設定して読者登録してください。
読者様のブログはたまに拝見に行き、

1日あたり約50件のブログを見て

います。

Ctrlキーを押したままで、下の

ボタンを押すと画面飛びしません。

お手数ですがよろしくお願いします。

        下矢印ダウンぽちっと下矢印ダウン押すだけ

                                         にほんブログ村 歴史ブログへ

 

                                         ブログランキング・にほんブログ村へ

 

                                        にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

 

                                        にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ

                                               
                  

ポチお願いします。