前回の続きです。
今回は本丸前編です。
下図⑯の本丸に上がった所です。
はじめに下図⑰の南側に行きます。
右端の赤い→の方に行きます。
郷土資料館で貰った縄張図(上が北)
です。
⑯から⑰に進むと
中間地点です。
さらに進むと
下図⑰の少し手前です。
草木が刈られてきれいに見えます。
もともと緩い傾斜地であったのを
削って、平地にしています。
平地の北側以外の周囲は深い崖に
なっています。
平地なので、木造の建物や柵が
あったでしょうが、瓦や礎石の
ない小さい建物なので、長期間
の放置で消滅したのでしょう。
副将で楠木正成の弟:正季が
ここを守っていた可能性があ
ります。
次に本丸北側に行きます。
下図⑯から⑱方向です。
⑱から⑲方向は
⑱から⑲方向で本丸北側石碑
が見えます。
本丸北側の平地です。
ここで記念撮影しました。
大阪平野がよく見えます。
昭和14年3月の石碑があります。
上赤坂城は楠木城とも呼ばれま
した。
主将の平野将監入道という人物は、
3年前の元徳2年(1330年)9月、
悪党数千人を率いて騒乱を起こし、
鎌倉幕府の京都六波羅を撃退した
名誉の悪党として、畿内にその名
を知られる在野の武将です。
(『東大寺宝珠院文書』)
また、平野は関東申次西園寺公宗
の家人で、近衛将監(従六位上)
の官位も持ち、乱の総大将:正成
の左衛門少尉(正七位上相当)よ
りも2階級は高位でした。なので、
平野が正成の弟を差し置いて、乱
の要の一つである上赤坂城の主将
に選ばれたのは、正成からの畿内
で有名な、大悪党(鎌倉幕府から
見て)への敬意と配慮があると考
えられています。
朝廷:令外の官位相当表です。
正成は少尉で平野は将監です。
江戸時代の平野氏系図によると、
名前は重吉で、父が平野重紀で、
母は八尾別当の娘だそうです。
平野郷が大阪市内にあり、そこ
の豪族だったのでしょう。
小さいほうの石碑です。
昭和11年4月に建てられました。
こちらの方が古いですね。
2・26事件の2か月後に建てら
れています。
昭和11年(1936年)2月26日、
陸軍の青年将校らが、岡田啓介
内閣総理大臣・斎藤実内大臣ら
を襲撃した上、首相官邸・陸軍
省・参謀本部などが集中する、
東京の麹町・三宅坂一帯を占拠
し、「国家改造」を要求すると
いうクーデターが発生した年で
す。東北では農作物が不作で、
貧農の家では娘を身売りする家
まであらわれています。貧富の
差が激しく、政治も上級国民だ
けで仕切られて、貧者を返り見
る政治家は少数でした。それで
政治家・財閥の襲撃事件が起き
ていました。日本統治下の韓国
でも娘の身売りがあったと考え
られます。韓国の身売り被害の
方も、日本人全体を悪者にせず、
日本の支配階級に限定して文句
を言って欲しいです。
今回はここまでで、次回が最終回です。
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