鎌倉 1 鎌倉歴史 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

今日から鎌倉武士屋敷跡紹介です。

2024年6月30日に訪問しました。

今回は鎌倉の歴史です。

 

旧石器時代の石器が常楽寺裏手の粟船山

で発掘されており、鎌倉の地に、最初に

人が住んだのは、今から1万年以上前の

旧石器時代のころと思われます。
縄文時代、弥生時代の遺跡・遺物も見つ

かっています。

古墳時代末(6世紀頃)になると、鎌倉

から三浦半島にかけては『古事記』に見

える「鎌倉別(かまくらわけ)」という、

古代豪族の勢力圏であったと考えられて

おり、横穴墓群が市内の丘陵地帯で多く

形成されました。

奈良時代の律令体制下で、鎌倉は相模国

鎌倉郡の郡衙(郡役所)が置かれ、行政

の中心となります。現在の御成小学校を

中心とする今小路西遺跡では、整然と建

ち並ぶ大型の掘立柱建物跡が検出され、

租税納入を書いた「天平5年(733年)」

銘の木簡が出土して、鎌倉郡衙跡である

ことが分かりました。

万葉集にも登場し、三浦半島(相模国)

から、海路を通じて房総半島(下総国)

へ向かう古代の東海道が通っています。

 

蘇我入鹿打倒を祈願するために常陸国

の鹿島神宮を訪れた藤原鎌足が、帰途

に霊夢によって鎌を埋めた土地である

ことから「鎌倉」と命名されたとする

伝説があります。中世から近世にかけ

て多くの地誌に採録されて広く信じら

れていました。

中臣鎌足です。

 

平安時代末期には平直方が居館を構え、

平忠常の乱鎮圧を源頼信に委ねて以来、

頼信の息子である源頼義の武勇にほれ

込んだ平直方が、頼義を娘婿に迎えて

持参金代わりに、鎌倉を譲ったと伝え

ています。河内源氏のゆかりの地とな

ったので、源頼義は京都の石清水八幡

宮を勧請しました。(後の鶴岡八幡宮)

河内源氏三代の故郷である河内壷井に

も石清水八幡宮から勧請した壷井八幡

があります。

10年ほど前ブログを始めた頃の記事。

 

1180年に頼義の玄孫である源頼朝が

鎌倉入りします。源頼朝が大倉の地に

居宅となる大倉御所をかまえて、政治

の拠点としました。

 

現在の鶴岡八幡宮の東方、横国大附属

鎌倉小中学校校舎と校庭の境付近から、

清泉小学校あたりがその館跡です。

 

 

1180年に頼朝は八幡宮を由比郷鶴岡

から小林郷へ移す。小林郷は鶴岡八幡

宮の所在地で、「鶴岡」は地名ごと移

転しました。

 

「鎌倉幕府」の始まりをどこに置くか

は、頼朝が征夷大将軍に任じられた年

建久3年(1192年)とする。「いい

国造ろう」と昔の教科書にありました

が、今では後白河法皇から守護地頭の

設置を許可された、1185年とする説

もあります。

甲斐善光寺にある源頼朝像です。

 

承久3年(1221年)の承久の乱にお

ける幕府軍の勝利後、院政より鎌倉

側の政治的優位性は決定的となり、

鎌倉は名実共に、日本統治の中心地

となりました。

河内源氏の源頼朝の家の将軍は3代

で途絶え、北条氏は比企氏、三浦氏、

和田氏など、ライバルとなる一族を

次々と滅ぼしました。

 

承久記絵巻にある北条義時肖像画

 

摂家将軍・親王将軍を名目的な将軍

として擁立し、北条氏は執権として

幕府機構を掌握しました。3代執権

:北条泰時の代には、幕政の中心と

なる将軍御所の所在地が大倉幕府か

ら北条義時大倉亭内の二階堂大路

仮御所を経て、宇都宮辻子幕府へと

移転します。

 

宇都宮辻子幕府跡です。

 

段葛右に宇都宮辻子幕府があります。

 

13世紀後半には建長寺、円覚寺を

はじめとする禅寺が建てられ、鎌倉

大仏が造立され、鎌倉五山が成立し

ました。

 

1274と1281年の元寇にも耐えま

したが、恩賞をほとんど出せずにい

ました。

内管領の長崎氏の専横などで、地方

では悪党が活動する。こうした中で

後醍醐天皇は倒幕を企てました。

1333年に天皇の意を受けた、新田

義貞軍は鎌倉を陥落させ、北条高時

ら一族と、長崎氏など重臣は東勝寺

合戦において自決し、死体がだれか

分からないように、顔の皮を剥いだ

と言います。

東勝寺腹切りやぐら

 

鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞です。

 

これで鎌倉幕府は滅亡しました。

 

建武の新政においては関東統治の

ため鎌倉将軍府が置かれ、足利尊

氏の弟である、直義が成良親王を

奉じて派遣されます。1335年に

北条氏の残党勢力による中先代の

乱が起こり鎌倉が奪還されると、

討伐のために赴いた尊氏が戦後

に鎌倉を拠点に建武政権から離

反します。

足利尊氏肖像画です。

 

足利軍は36年に京都を奪還して、

京都に武家政権を成立させ、南北

朝時代の貞和5年(1349年)に

は、鎌倉へ尊氏の次男の基氏が派

遣され、東国支配のための出先機

関として鎌倉府が設置されました。

その長官が鎌倉公方です。

 

鎌倉公方初代の足利基氏です。

 

室町時代には鎌倉府は京都の幕府

と対立し、永享の乱などが起こる。

康正元年(1455年)に5代目鎌倉

公方の足利成氏は、室町幕府側と

対立し、下総国古河(古河市)に

逃れて、以後「古河公方」と称し

ます。享徳の乱以降、鎌倉は扇ガ

谷に邸宅を持っていた扇谷上杉家

の勢力圏となります。その家宰が

江戸城を築いたことで知られる、

太田道灌です。英勝寺付近(鎌倉

市扇谷)に扇谷上杉家や太田道灌

の屋敷があったとする伝承があり

ます。

1498年9月20日に発生した明応

地震で、鎌倉は津波に襲われます。

高徳院の大て、

仏殿は津波で倒壊して、

鎌倉の大仏が露坐となりました。

1512年には北条早雲が現在の鎌倉

市大船に小田原城の支城である玉縄

城を築いた。しかし、三浦半島の支

配権を巡って、後北条氏と里見氏の

対立が深まり、1526年の鶴岡八幡

宮の戦いでは鎌倉市中が戦場になっ

ています。

北条早雲です。

 

江戸に武家政権が成立し、鶴岡八幡

宮は徳川家康・秀忠の保護を受けて、

社殿の修理も行われました。

 

徳川家康です

 

今回はここまでで、次回に続く

 

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