クナシリ・メナシの戦い | みどりの木のブログ

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3日おきに更新しています。

墓碑の解説板写真を追加しました。

 

前回の続きです。

納沙布岬の方に行きました。

大昔ですが知床には行ったので

すが、斜里駅前の食堂で、昆布

うどんを食べたとき、その美味

に驚きました。これまで食べた

ことのない味でした。昆布が良

かったのでしょう。

しかし、根室半島は初めてです

が、おみやげに昆布を買いまし

た。

下図②付近です。

地面に北方領土が描かれています。

天気はいいのですが、風が強い日です。

 

Googleマップです。

 

1789年クナシリ・メナシの戦いとは

 

1912(明治45)年5月、納沙布岬に近

い珸瑤瑁(ごようまい)の浜で、 砂に

埋まっている石が発見されました。掘っ

てみると「横死七十一人之墓」と彫ら

れていました。

 

上図①付近にある石碑です。

上図①にある横死七十一人之墓です。

この右側に

 

墓碑解説板があります。

拡大すると

墓碑の解説板です。

碑の横面に「文化九年歳在壬申四月建之」

と刻まれ、文化九年は西暦の1812年です

ので、この年の4月に造られたことがわか

ります。裏には漢文で難しい文章が書かれ

ています。現代語訳すると

「寛政元年五月に、この地の非常に悪い

アイヌが集まって、突然に侍や漁民を殺

した。殺された人数は合計七十一人で、

その名前を書いた記録は役所にある。

あわせて供養し、石を建てる    」
という意味になります。この墓石が新し

いので、レプリカでしょう。

 

それまでの経過

江戸時代の北海道は、蝦夷地と呼ばれて

いました。蝦夷地は松前藩の松前氏によ

管理されていました。当時の蝦夷地は米

が獲れなく、本州のように年貢をとるこ

とができませんでした。しかし、松前は

蝦夷地の交易による利益で、藩が成立し

ていました。最初は、松前藩主や家臣が

直接蝦夷地でアイヌの人々と交 易して

いましたが、しだいに商人にまかせる

ようになりました。交易品には和人側

からは、米・酒・鉄製品、ガラス玉な

どの食糧や生活物資が、アイヌ側から

は・毛皮・ワシの尾羽(矢の羽に使う)

などの産物がありました。

根室や厚岸、クナシリ島の交易を最初

に行った商人は、飛騨国増田郡湯之島

村(岐阜県下呂町)の、飛騨屋の武川

久兵衛という人でした。飛騨屋はもと

もと材木商でしたが、松前藩に多額の

お金を貸し、松前藩はこのお金を返す

代わりに、交易の権利を飛騨屋に与え

たのでした。しかし、根室やクナシリ

地方には、強力なアイヌの勢力があり、

飛騨屋の交易は順調に進みませんでし

た。

1789年5月にクナシリ島のアイヌが一

斉に蜂起し、松前藩の足軽竹田勘平を

はじめ、飛騨屋の現地支配人・通辞・

番人らを次々に殺害しました。さらに

チュウルイ(標津町忠類)沖にいた

飛騨屋の大通丸を襲い、標津付近の

アイヌも加わり、海岸沿いにいた支

配人、番人らをも殺害しました。

 

クナシリ島で蜂起にしたのはマメキリ、

ホニシアイヌら5人が中心となって、

合わせて41人が番人らを襲撃しました。

彼らはクナシリ島の若きアイヌリー ダ

ーたちで、フルカマップで4人、トウ

フツで2人、トマリで5人、チフカルベ

ツで8人、ヘトカで3人の合計22人を

殺害しました。さらにメナシ地方(標津 

・羅臼付近)では、49人を殺しました。

結局クナシリ・メナシ地方合わせて130

人が蜂起し、71人の和人を殺しました。

このあたりにいた和人で生き残ったもの

は4人ほどでした。

 

この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧隊

260人をノツカマップに派遣し、なぜ

蜂起が起きたのか取り調べることにな

りました。取り調べの結果、飛騨屋の

支配人、番人らの非道(暴力・脅迫・

性的暴力・だまし・ツグナイ要求)の

実態が明らかになりました。これらは、

飛騨屋がアイヌを強制的に働かせるた

めに行われました。また、アイヌの人

々は非常に安い賃金(品物)で、自分

たちが冬に食べ る食糧を確保する暇

もないほど働かされ、餓死するものが

出る状態でした。次第にアイヌたちは

「このままでは生きていけない」と

意識するようになり、飛騨屋の番人ら

が「アイヌを根絶やしにして、和人

を連れて来る」という脅しが、現実味

を帯びてきました。さらに、女性に

対する性的暴力が続出して、それに

対する抗議をしても認めるどころか、

さらにひどい暴力を受けました。

 

この蜂起の事実が松前城下に伝わ

ったのは6月1日で、すぐに260人

鎮圧隊が組織されました。鉄砲

85丁・大砲3挺・馬20頭も準備

れ、6月11日から19日にかけて

、根室のノツカマップに向けて

出発しました。

 鎮圧軍は7月8日にノツカマップ

に到着しました。蜂起に関係した

アイヌたちをノッカマップに集め

取り調べが始まり ました。最初は

捕まって殺されるかもしれないと

いう疑いからなかなか集まりま せ

んでしたが、7月16日までにメナシ

の183人と、クナシリの131人の

アイ ヌがノツカマップに来ました。

 

ノツカマフシャチです。


アイヌに対する取り調べは、アッ

ケシの首長イコトイ、ノッカマッ

プの首長ションコ、クナシリの首

長ツキノエに行わせました。その

結果、クナシリでは41人、メナシ

では89人が、合わせて130人が蜂

起し、殺害に加わったことが 判明

しました。さらに、なぜ蜂起した

かについても詳細に取り調べられ

ました。この内、直接の加害者で

ある37人が牢に入れられました。

さらに彼らが持っていた弓などの

武器が全て没収されました。

7月20日に取り調べが行われて、

その日に直ちに37人に対して、

重罪であるという理由で死罪が

決定しました。

翌21日、本人たちに死罪が申し

渡され、指導者であったマメキリ

から順番に牢から引きだし、首

をはねていきました。次々と首

をはね、5人目が終わり、6人目

の時、牢内が騒がしくなり、大

勢がペウタンケと呼ばれる呪い

の叫びをあげ、牢を壊そうとし

たので、鎮圧軍は牢に鉄砲を撃

ち込み、逃げる者は槍で突き刺

し、大半を殺した後、牢を引き

倒し37人全てを処刑しました。

その後、処刑した者全員の首を

はね、洗って箱に塩詰めにし、

胴体は一つずつむしろで包んで

大きな穴を掘って埋めたのでし

た。
7月24日には37人に胴体を埋め

た塚に、太さ30センチメートル、

長さ3.6メートルの角材の四面を

赤く四角を黒く塗り、ノツカマ

ップ岬の四方から 見渡せるとこ

ろに建てました。現在この場所

がどこか不明です。

7月27日 には、長老のアイヌた

ちに、今後二度とこのようなこ

とがないようにと申し渡して、

鎮圧軍はノッカマップを出発し

ました。37個の首は松前郊外

の立石野で首あらためが行われ

ました。

■アイヌと松前藩
この戦いの後、飛騨屋は交易の

権利を没収されましたが、松前

藩には何のお咎めもありません

でした。結局、幕府は特にこの

戦いの後、新しい政策を打ち出

せず、蝦夷地を黙認したのでし

た。しかし、蝦夷地の経済的な

価値やロシアの南下に対しては、

再度強い関心を示し、幕府の目

が北に向くきっかけになったの

でした。

■アイヌの勢力
この戦いに敗北した、アイヌ社会は

松前藩との力の差を知ることになり、

さらに、本州から持ち込まれる生活

物資無しには、生活できなくなって

いて、アイヌ自身による独自の政治

勢力が育つ可能性が、非常に弱くな

るという道をたどります。
アイヌにとっては、蜂起前のように

武力で立ち上がる力をつみ取られ、

政治的にも経済的にも従属関係とな

り、和人支配下で働かされるという

ことが、日常的になりました。

本土の農民一揆に近いものですね。

1789年はフランス革命が起こった

年でもあります。バスティーユ牢獄

襲撃が1789年です。

   (根室市Webページより引用)

現在のブラック企業でもありそうな

悲惨なアイヌの人達でした。

 

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