5年前のブログを再UPしました。
前回の続きです。
今回は東築出シから駅前です。
現在地付近にある重ね図です。
大きな赤丸付近が東築出シです。
船入があるので、船の関連施設
でした。
江戸時代末期の古絵図です。
赤枠の所には、「構武所」と
「大砲鋳造場」が設置されて
います。その左に東築出シと
あります。
しかし、正保1645年頃の古
絵図(下図)では侍屋敷だけ
です。「構武所」と「大砲鋳
造場」がありません。つまり
この2つは幕末に出来た施設
なのです。
江戸時代初期の正保1645年頃
の古絵図です。
「構武所」と「大砲鋳造場」は
江戸後期まで幕府から許されな
い施設でしたが、外国船打ち払
い令が幕府から出て許された施
設です。ここでは西洋式調練や
西洋式武器の製造と使用法を教
えたところです。
Google地図です。
下図⑨からイオン三原店方向です。
⑨B付近に行くと
Googleストリートビューより
⑨Bにある三原郵便局です。
郵便局南側で下図赤丸の二階
櫓付近です。
江戸末期の古絵図です。
赤丸の二階櫓は船入警備
用の櫓です。
イオンの南側は大砲鋳造
場で鍛冶曲輪でした。
『三原市史』第四巻には、江戸時代
の1804年に編纂された『三原志稿』
という書物(地誌)が掲載されていま
すが、下のような記述があります。
「築出(東築出シ) 百九十二間あり、
御築城の折から築出されし地也とい
ふ、爰の海手の船入の家居は船問屋
にて、今も問屋株残れり、又上手の
町並みは水主町也、前の空地は網打
場也」
東築出シ192間とは192×1.8m=
約346mあります。
船問屋や船の乗組員(主水)の住居
で、関連する藩士も住んでいたこと
でしょう。
駅前の⑩付近に戻ると
⑩付近の駅舎壁にある画図です。
1802年に広島藩士:岡岷山が
描いたものです。
下にその解説板があります。
解説板です。
三原城から南方向の景色です。
画図附近のGoogle地図です。
下が南です。
今回はここまでで、次回が最終回です。
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