ひめゆりの塔と沖縄戦 1 歴史   | みどりの木のブログ

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今回からはひめゆりの塔と

沖縄戦です。

1回目はその歴史です。

 

1945年の沖縄戦で亡くなった、

沖縄師範学校女子部・沖縄県立

第一高等女学校の生徒や教師の

ための慰霊碑です。

沖縄戦の翌年、両校で最も多く

の犠牲者を出したガマ(鍾乳洞)

の上に建てられました。
最初のひめゆりの塔は1946年

4月5日に建立されました。

現在のひめゆりの塔は1957年

6月建立です。

沖縄戦で死亡した沖縄師範学校

女子部と沖縄県立第一高等女学

校の生徒と教師227名が刻銘さ

れています。
ひめゆり学徒隊…………136人
ひめゆり学徒隊以外の在校生と

教師…… 91人

 

ひめゆり学徒隊の「伊原第三外科壕」

手前に古い石塔があります。

 

拡大すると

刻銘表と百合(ゆり)の彫刻

があります。

 

ひめゆりの塔解説板です。

 

ひめゆりの塔にあるガマ(鍾乳洞)は、

沖縄陸軍病院の第三外科が南部撤退後

に入っていた壕で、「伊原第三外科壕」

と呼ばれています。「伊原」はガマが

ある場所の地名です。ひめゆり学徒を

含む陸軍病院の看護婦や兵隊、住民な

どおよそ100名が隠れていました。

19日早朝、米軍の攻撃を受け、80名

あまりが亡くなりました。

 

沖縄戦の経過

 

1945年の動員命令から解散まで

県内にあった21の全ての中等学校

・師範学校から生徒が戦場に動員

されました。女子は主に看護活動、

男子は砲爆撃の中、部隊の物資運

びや伝令(命令の伝達)、橋の補

修、電話線の修復などを行いまし

た。米軍戦車への自爆攻撃を命じ

られた生徒もいました。

那覇市にあった「沖縄師範学校女

子部」と「沖縄県立第一高等女学

校」からも、生徒・教師240名が

看護要員として動員され、そのう

ち136名が死亡しました。2校の

愛称が「ひめゆり」であったこと

から、戦後、「ひめゆり学徒隊」

と呼ばれるようになりました。

 

旧学制では高等女学校(旧制中学)

と師範学校は就業年数が同じで、

小学校教員免許が取得できました。

女子高等師範学校は東京女子高等

師範・・広島女子高等師範・奈良

女子高等師範の3校ありました。

(官立学校)

 

南風原陸軍病院へ 

 

1945年3月23日夜、ひめゆりの

生徒は引率教師とともに学校を出

発し、南風原にある沖縄陸軍病院

に向かいました。沖縄陸軍病院は

兵隊のための病院で、小高い丘に

40近い壕が掘られ、その中に粗末

な二段ベッドが並んでいました。
生徒たちの多くは、看護婦と一緒

に患者の世話を行いました。尿や

便の片付け、水や食事の世話、包

帯交換の手伝いなどに走り回り、

休む間もありませんでした。特に、

飯上げや水くみ、死体埋葬は、壕

の外に出て行く命がけの仕事でし

た。動員された生徒は222名で、

教師は18名でした。

患者の食事は、初めのうちは、

テニスボールぐらいのおにぎり

が1個、朝夕2回ありましたが、

だんだん小さくなってピンポン

玉くらいのおにぎりが1日1個

になりました。生徒の食事も

同じでした。

米軍との戦闘が激しくなると、

壕は重傷の患者でいっぱいに

なりました。生徒が横になる

場所はなく、壁にもたれて仮

眠を取りますが、すぐに患者

に呼ばれて起こされました。

患者は、「水をくれ」「おし

っこがしたい」「痛い、痛い、

何とかしてくれ」と呼び続け

ていました。

食べ物も飲み水も少ないせい

か、生徒たちには生理も排便

もほとんどなくなり、汚れた

衣服や頭にはシラミがわきま

した。青白くやせ細っていき、

高熱におそわれ倒れる生徒も

出てきました。

 

南部への撤退
 

1945年5月22日、首里の第

32軍司令部に米軍が迫り、

日本軍は南部への撤退を決定

します。5月25日、沖縄陸軍

病院に撤退命令が出され、生

徒たちは患者に手を貸し、傷

ついた学友を担架に乗せて、

砲弾の中を南部へと急ぎまし

た。

 


撤退した南部の地図です。
前回までの具志川城があります。

沖縄陸軍病院の関係者や教師と

生徒は、糸満の伊原一帯に到着

後、6つの壕に分かれました。

医療器具や薬品、負傷兵を収容

する場所もない状況で、病院は

その機能を失います。

解散命令と死の彷徨 

6月中旬には、米軍が南部へと

迫り、陸軍病院の壕も攻撃され

ていきました。

1945年6月18日夜、陸軍病院

では学徒隊に「解散命令」が言

いわたされました。壕を出た生

徒たちは、茂みや岩陰に身を隠

し、海岸へと追い詰められてい

きました。砲弾の飛び交う中、

傷ついた体をひきずって逃げる

者、負傷した学友を助けて歩い

ていく者、重傷で動けずその場

に倒れる者、砲弾に吹き飛ばさ

れる者、ガス弾 (黄リン弾)攻撃

を受ける者、手榴弾を爆発させ

る者、海岸で大波にのまれる者

など、行き場を失い、父母を呼

びながら死んでいく生徒が続出

しました。
生徒の多くは、6月20~28日の

間に米軍に捕まり、各地の収容

所に送られましたが、なかには

日本の降伏も知らずに8月22日

にまで壕に隠れていた生徒もい

ました。

「解散命令」は、結果的に米軍

の包囲網の中に生徒たちを放り

出すことになり、その後の犠牲

を飛躍的に増やしたのです。

(ひめゆり平和祈念資料館より引用)

 

米軍に捕まった方が幸せでした。

戦後は米軍が農地解放・財閥解体

を行い、日本の多くの良心的指導

者がやりたかったことを実行して

くれたので、負けて良かったと思

った日本人も多かったでしょう。

 

またメロンちゃんの動画お借りしました。

(1分50秒)

 

今回はここまでで、次回が最終回です。

 

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