昨日の続きです。
今回は旧馬引町から古田織部屋敷跡
までです。
下図⑳から楼門方向です。
遠くに楼門が見えます。
妙徳寺から⑳まで歩きました。
妙徳寺が以前からここにあった
とすれば,外堀の外なので、妙
徳寺が中川氏関連のお寺なの
だから、外堀はやはり片桐氏
の時代に造られたものでしょう。
⑳の交差点を渡った所です。
旧東馬口引町の石碑があり
ます。
旧東馬口引町の石碑です。
Bの所に行くと
B地点です。
ここから右に行き上図①へ
行きました。
番号が①に戻りました。
21から表示できないので
仕方なく①に戻っています。
上図Bから①方向です。
①から②方向です。
下図②付近にある豪商らしき
豪邸がありました。
上図②から③方向です。
この付近は武家屋敷跡です。
③付近に城下町に多い遠くを
見透せない道の、「あて曲げ」
または「折れ」があります。
(赤い印の所です)
下図③から振り返り「あて曲げ」を
見たところです。
上図④から⑤方向です。
この先にも「あて曲げ」が
あります。
進むと
坂の上が⑤です。
天井川の茨木川跡の坂道です。
下図⑤の所です。
ここに佐助屋敷跡の石碑があります。
カメラを左に回すと
⑤から④方向です。
佐助屋敷跡石碑です。
この佐助というのが古田織部のこ
とです。中川清秀の妹だった仙が
古田(織部)重然の正室でした。
また、キリシタン大名である高山
右近は清秀の従兄弟でした。
古田織部の官位は従五位下の
織部助で、関が原以後は1万石
の大名でした。
官位から左介とも言われました。
妻の実家といえる茨木城なので、
古田織部の屋敷もありました。
古田織部の肖像画です
古田織部重然(しげなり)とは
1543年に美濃国の国人領主
であった古田重安の弟:古田
勘阿弥の子として美濃国に生
まれました。後に伯父:重安の
養子となり古田家を継ぎました。
家紋は三引両です。
父の勘阿弥は「茶道の達人也」
と「古田家譜」記されていること
から、織部も父:勘阿弥の影響
で茶道に興味をもったようです。
古田家は元々美濃国の守護大
名土岐氏に仕えていましたが、
1567年の織田信長の美濃支
配の前後に織田氏の家臣とな
りました。
1578年に荒木村重が謀反
(有岡城の戦い)を起こしたの
で、義兄の清秀を織田方に引
き戻すという手柄を立てました。
その後も羽柴秀吉の播磨攻め、
明智光秀の丹波攻め、甲州征
伐に清秀と共に従軍し、禄高
は300貫(1貫文=2石)と少
ないですが、武将として活動
しています。
信長死後は秀吉に仕え山崎
の戦いの前に、中川清秀に
秀吉へ人質を出すことを認め
させました。秀吉と義兄弟の
契りを交わしたのに、信用さ
れていませんでした。
賤ケ岳の戦いで、清秀が戦
死したため織部は清秀長男
の秀政後見役となります。
義父:重安の実子で義弟に
当たる重続を美濃から呼び
寄せ、長女:千を中川秀政
の養女とした上で娶らせて、
中川家の家老としました。
この重続の子孫は、織部の
正系が絶えた後も中川氏
の家臣として存続しました。
茶人としては千利休の「人
と違うことをせよ」という教え
で、「織部流茶道」を完成さ
せます。多くの大名が彼の
弟子となりました。歪んだの
が特徴の織部焼でも有名で
す。
徳川秀忠も弟子だったのに、
織部が大坂冬の陣の頃から
豊臣氏と内通しており、徳川
方の軍議の秘密を大坂城内
へ、矢文で知らせたなどの
嫌疑をかけられ、大坂落城
後の、1615年6月11日に
切腹を命じられ、伏見木幡
の屋敷で自刃し、古田家は
断絶します。
今回はここまでで、明日に続く
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