昨日の続きです。
今回は尼崎市立歴史博物館3です。
尼崎城と城下町を造った
戸田氏鉄(うじかね)肖像画です。
解説板です。
1615年に大阪夏の陣で豊臣家
が滅亡します。
1616年に徳川家康が死去しま
した。
1618年から数年かけて尼崎城
が築造されます。戸田氏鉄は5
万石なので、3重の堀を持つ大
きな城は造れません。徳川家
がら資金援助があったと考えら
れます。徳川家としては西国大
名への備えが欲しかったので
しょう。
当時南側は海でした。
城下町の名前が書かれた絵図です。
中心部を拡大すると
さらに中心部を拡大すると
江戸時代中期以降の尼崎城です。
堀の深さは内堀約2.4mでもっと
も深く、最も浅いのが南側の外堀
で約1mでした。平均するとおよそ
2mでした。
それから時代が経つと、土砂が
たまって浅くなりました。
歴史博物館にある本丸模型です。
四重天守古絵図です。
大手門の太鼓門から見た本丸模型です。
右端は武具櫓です。
模型の周囲を1周して撮影しました。
手前が武具櫓です。
天守方向から見たところです。
天守は現在の歴史博物館の
あるところです。
手前右下は塩噌櫓です。
本丸御殿図です。
この図面には菓子部屋と
書かれた部屋もあります。
どこにあるでしょうか?
本丸御殿機能解説図です。
戸田氏鉄(うじかね)について
1576年に三河国二連木(愛知県豊橋市
仁連木町)で、戸田一西の長男として生ま
れました。
徳川家康の近習として仕えました。
1600年の関ヶ原の戦いに従軍します。
1603年に父一西の死により家督を継
ぎ、近江膳所藩主となります。
1614~1615年の大坂の陣では居
城の膳所城の守備をしました。
1515年に摂津尼崎5万石へ移封され、
数年かけて尼崎城を築城しました。
1624年に大坂城修築に参加します。
1635年に美濃大垣10万石へ移封さ
れました。
1637年の島原の乱で出陣し、実戦
経験の少ない幕府軍を率いて戦いま
した。
1651年11月に隠居して、入道し
常閑と号しました。
1655年に80歳で大垣にて死去
しました。家督は長男の氏信が継
ぎました。
尼崎藩主として尼崎城築城と共に
行った治水事業の功績が称えられ、
兵庫県尼崎市と大阪市西淀川区
佃の府県境を流れる左門殿川や
左門橋として、その名を残してい
ます。
現在の尼崎城跡です。
今回はここまでです。
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