高田城(続日本100名城) 1 歴史 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

今回から高田城(続日本100名城)の

紹介です。

 

朝の6時から歩き続けたので、

ちょうどお昼になり、ものがたり

館横のコンビニで弁当を買って

食べました。

 

コンビニ店内のイートコーナー

で食べました。

 

ものがたり館の横を走る道路に

バス停があり、ここから高田城

までバスで行きました。

 

ものがたり館から高田城までの

グーグル地図です。

赤丸のバス停から高田城赤丸

までバスで移動しました。

 

今回は高田城の歴史です。

 

江戸時代

 

春日山城・福島城・高田城の位置図

(上越市立歴史博物館より)

 

春日山城の堀家が福島城を築城して

移りました、さらに、堀家改易後には、

1610年に徳川家康六男、松平忠輝

が信濃川中島から福島城に75万石

で入封(60万石とも言われます)しま

す。大藩となったのは豊臣家が健在

で、前田家と上杉家に備えたいとの

思いが家康にあったようです。

 


松平忠輝肖像画です。(上越市立歴史博物館より)

父は家康で、母は側室の茶阿局です。

 

松平氏略系図です。

(上越市立歴史博物館より)

 

高田築城解説板です。

(上越市立歴史博物館より)

 

1614年に忠輝が福島城を廃し、高田城を建築。

松平忠輝(越後少将家)の居城として天下普請

(13大名)によって造られました。城地の縄張り

と工事の総監督は忠輝の舅だった伊達政宗で

した。高田城は、高田平野にある菩提ヶ原に築

かれた平城です。約230mから約220m四方

の本丸を取り巻くように二ノ丸、南に三ノ丸、北

に北の丸を配し、関川、青田川などを外堀として

利用しました。わずか4か月で完成しています。

石垣を使わなかったこと以外に、下図のように

関川の蛇行を利用して、蛇行部分を埋め立て

て関川と切り離し、蛇行部分を城の外堀にした

のです。なので外堀の幅が約100mと広くなり

ました。低湿地に築城されたため排水設備が

重視され、城地には暗渠が張り巡らされてい

ました。天守はなく1614年に3重3階の三重

櫓を建てて天守の代用としました。1614年は

大阪冬の陣の年です。

石垣がないのは低湿地で石垣を造り難いこと。

それは同時に崩れやすいために、補修費が高

いことになります。

その他に、早く完成させたい情勢にあったこと

があります。また、大砲で攻撃される時代にな

り、大砲では石垣が崩れるので、土塁の方が

ましだった。などです。

 

グーグル高田城地図です。

赤丸の位置がバスを降りた所です。

明治以降の陸軍第13師団の入城で

東半分が破壊されました。現在も陸上

自衛隊の駐屯地があります。

 

レーザー光による高度地図です。

青いほど低地になります。

本丸付近には小山があったのか

黄色になっています。

蛇行の跡が青いです。

(上越市立歴史博物館より)

 

幅の広い元関川蛇行を利用した

外堀です。夏に来たら蓮の花で

きれいな堀です。

 

1681年の高田城古絵図です。

 


上のグーグル地図と古絵図を

重ね合わせた地図です。

 

天守代わりの三階櫓です。

上越市発足20周年記念事業として、

焼失した三階櫓を1993年(平成5

年)に復元しています。

 

1616年に松平忠輝改易されます。

原因はキリスト教布教に積極的で、

海外との交易を望んでいたためと

言われます。政宗の影響が強かっ

たのでしょう。

下図のように僅か5年6か月の藩

主でした。結局信州諏訪家預かり

で、1683年に92歳で亡くなりま

す。

 

 

1616年に酒井家次が上野高崎10万石

から移封しますが、2年未満で領地替え

でした。

1618年に家次の子・忠勝が信濃松代

に転封します。松代藩主の松平忠昌が

高田25万9千石の藩主となります。

1623年に忠昌は越前福井藩50万石

を相続。高田から移動します。
1624年に松平光長(越後中将家)が

26万石で藩主になります。

 


松平光長肖像画です。 

結城秀康の孫で徳川家康の曾孫です。

 

 

松平光長解説板です。

 

松平光長は57年もの長期間藩主でした。

光長の時代は高田が一番繁栄した時代で

した。

1681年に越後騒動により、跡継ぎ問題で

揉めて、光長は改易になります。

長男がいましたが病死していました。

7年後に許されて江戸に戻りますが、宝永

4年(1707年)に93歳でなくなります。


その後は数家が藩主となりますが、

1742年榊原政純が播磨姫路から15万

石で入封します。

榊原家は明治維新まで続きました。

 

明治維新後

 

1870年(明治3年)に本丸御殿・三重櫓

などを焼失。
1873年(明治6年)には廃城令によって、

存城処分となり焼失しなかった建造物も

取り壊されました。

陸軍第13師団の入城時に3000本を

超す桜(染井吉野)が植栽され、日本

三大夜桜(高田城址公園観桜会)の

ひとつに数えられます。

高田藩の財政再建や士族授産のため

に地元の大地主だった保阪貞吉が私財

を投じて外堀に蓮を植えさせ、レンコン

栽培事業が始められます。レンコン栽培

は1962年(昭和37年)で中断しますが、

開花時期には毎年「上越蓮まつり」が開

催されています。

 

1993年に焼失した三重櫓を復元しま

した。

 

復元された三重櫓です。

 

2002年に高田城築城当時、二の丸か

ら本丸に渡っていた極楽橋が発掘調査

の資料をもとに復元されました。

 

2002年に復元された極楽橋です。

 

2017年(平成29年)に続日本100名城

に選定されました。

100名城に選ばれてもよい城です。

 

今回はここまでで、明日に続く

 

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