昨日の続きです。
前回で直江家に入り婿してきた武将が、
関が原の責任を取り、直江兼続は切腹
で直江家は閉門と考えていた家臣が、
直江家はまだ5千石もあるのかと、いじ
められて、直江の名字を捨てて、旧姓
に復して、金沢前田家の家臣に転出し
たのではと考えました。
120万石が30万石に減ったのだから、
兼続が生きている間は、権力者なので
文句は言えないけれど、その死後は入
り婿の武将には、きつい風当たりがあ
ったと思います。直江家断絶というの
は悲しいですね。そこに「愛」はあるの
かと言いたいです。
今回は虎口から千貫門までです。
下図①付近の虎口です。
ジグザグに下ります。
現在地にある案内地図です。
現地に合うように改変してい
ます。
下のコーンがあるところ、
上図②まで下ります。
②で歩いた道を振り返ると
②から虎口を振り返って撮影しました。
虎口の入口です。
下りたところに解説板が2つあります。
ここは帯曲輪になっていて、通行禁止
の柵があります。
この虎口は敵の侵入を防ぐために
食い違いの坂道になっています。
上杉謙信より前の春日山城はここ
までが城の範囲でした。
帯曲輪です。
帯曲輪の解説板です。
上にある曲輪を取巻くように
帯曲輪があります。
上図虎口②から③方向です。
道の横に空堀がありますが、
この空堀の上にあがらない
と、虎口に行けない構造です。
空堀の解説板です。
空堀から虎口に行くための
橋が平時はありました。
戦争状態では木橋を外し
て、虎口に来られないよう
にしたのでしょう。
ここを振り返り撮影すると
振り返り撮影したところです。
堀底をそのまま進むと沢に
落ちます。
空堀の下にある千貫門のある
曲輪が見えます。
下図④付近です。
上杉小弼(すけ)入道宅阯の
石碑があります。
室町時代に越後守護家上杉
氏から分家した、上条上杉氏
出身の家臣だそうです。
さらに進むと
下りていくと
上図⑥付近から見たところです。
千貫門跡が見えます。
門跡の両側に今も土塁が残ります。
通行しているこの道は謙信の時代
には無かった道です。
この下り坂には右端に見える土塁
が続いていました。
千貫門の内側には広い曲輪
があります。
1694年の古絵図です。
(米沢市上杉博物館蔵)
冠木門形式の千貫門が
描かれています。
土塁で分断された千貫門跡です。
この土塁は400年前にはもっと
高かったと考えられます。
千貫門の解説板です。
上図⑧付近から⑦方向です。
カメラを左に回すと
虎口に続く空堀です。
この左側にも空堀があります。
もう1つの空堀です。
塹壕阯の石碑があります。
こちらを進むと沢に落ちます。
空堀の解説板です。
千貫門の内側には広い曲輪が
あり、その先に2つの空堀があ
ります。
どちらもそのまま進むと沢に落
ちます。
今回はここまでで、明日に続く
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