本佐倉城(続日本100名城) 4 城山虎口から城山郭 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は城山虎口から城山郭です。

 

城山郭は城主のための曲輪で、

本丸といえます。

 

下図①の附近です。

右に行くと城山門跡があり、その

内部が本丸です。左側に行くと、

奥ノ山郭の方に行けました。

 

現地案内板です。

(イラストは川口マナミさん)

発掘調査により、下総千葉氏

の御殿跡が発見されました。

 

①で振り返り撮影すると

 

①で振り返り撮影した所です。

 

現在地点★が①です。(現地案内板)

 

千葉氏については

酒々井(しすい)町発行のパンフレット

などから

 

千葉氏初代の平常長(1024~1108)

は、前九年の役・後三年の役で源頼義・

義家父子に従って戦功を立てたのち、

上総国山辺郡大椎(現在の千葉市緑区

大椎町)に舘を築いて本拠としました。

 

3代目の千葉常胤は下総国初代の

守護となり、千葉氏を発展させまし

た。

 

千葉常胤

 

室町時代になり

 

常胤の孫の千葉成胤の没後には、

千葉氏に幼少の当主が相次いた

ので、衰退しますが、千葉頼胤は

実力のない当主となり、妙見菩薩

を千葉氏宗家(成胤とその子孫)

および一族の守護者であること

を主張した妙見伝説を作りました。

なので、本佐倉城にも妙見神社

があります。

 

1455年室町時代に享徳の乱で、

千葉氏内部での分裂が起り、嫡流

は事実上滅亡します。筆頭家老で

ある原氏の勢力が千葉氏の当主

よりも強くなります。

1470年頃に千葉氏は本拠地を

現在の千葉市から、酒々井町と

佐倉市の一帯にある、本佐倉城

に移しました。

常陸国の佐竹氏、小弓公方足利

義明や安房国の里見氏の侵攻を

受けるようになります。そこで北条

氏から婿養子を迎えて、後北条

氏の支援をもとに所領を守ります。

本拠地もさらに守りの堅い、現在

の佐倉城に移そうとするのですが、

第26代当主を継いだ千葉親胤は、

重臣の原親幹によって暗殺され

てしまい、さらに第29代当主を

継いだ千葉邦胤が、1585年に

また家臣の手で暗殺されたので、

佐倉城築城は中断されました。

千葉氏9代約100年の間、この

本佐倉城を本拠地としました。

 

1590年の豊臣秀吉による

小田原征伐で、千葉氏は後

北条氏に味方して、敵対した

ので滅ぼされました。

本佐倉城は廃城になります。

近くに陣屋が造られたので、

佐倉城に移るまでは、その

陣屋が拠点になりました。

 

江戸時代

 

分家の相馬氏は大名として、

明治維新まで続きますが、

千葉宗家は徳川家康に仕え

ますが、いろいろあり直ぐに

浪人となります。次の仕官が

決まらず、帰農しています。

村医者として多くの村人を

助けたという当主もいました。

 

話を城山郭(本丸)に戻します。

 

この遺跡は千葉氏の御殿跡です。

①のところが下図①です。

 

右側の主殿・会所の方に行くと

 

遠侍(とおさぶらい)とは武家屋敷で、

主屋から離れた脇などに設けられた

警護の武士の詰め所です。

 

遠侍の方に行くと

 

遠侍の跡が見えます。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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