昨日の続きです。
今回は三の門から二の門です。
三の門を入った所です。
下図①から三の丸内です。
現代の地図に江戸時代を
重ねた地図です。
江戸時代中期の絵図です。
赤い線に沿って歩きました。
下図②付近から茶室三逕亭
(さんけいてい)⑤が見えます。
江戸時代にはここは小姓長屋
でした。京都大徳寺の塔頭、
孤蓬庵の茶室忘筌(重要文化
財)を模したもので、昭和58
年に東京港区の乃木神社か
ら移築されました。陶淵明の
「帰去来の辞」から三逕亭と
名付けられました。
その手前窪地は空堀跡です。
下図のように土塁もありました
が消滅しています。
上図③付近です。
下図③から崖を下りる浅間坂が
あります。下りると出丸の方に
行けます。
茶室三逕亭が見えます。
道の先には銅像も見えます。
進むと
上図⑥の所です。
赤い線を通り二の門に行きますが、
道の両側にハリスと堀田正睦の銅
像があります。
タウンゼント・ハリスの銅像です。
ハリスの古写真です。
アメリカ総領事のタウンゼント・ハリス
は日米修好通商条約に調印をしました。
掘田正睦の銅像です。
佐倉藩5代藩主堀田正睦(ほったまさよし)
堀田正睦(1810~1864年)は蘭学
を奨励して佐藤泰然を招聘して佐倉
順天堂を開かせます。そんなことで
「蘭癖」と呼ばれ開国派でした。
朝廷の勅許なしで1858年にアメリカ
総領事のタウンゼント・ハリスと日米
修好通商条約が調印されました。
井伊直弼が大老でしたので、正睦
を始めとする一橋派の排斥を始めま
す。1858年に正睦は松平忠固と
共に登城停止処分にされます。
6月には忠固と共に老中を罷免さ
れ正睦は政治生命を絶たれました。
正睦はそれまで天皇から勅許を受
ける係で、京都まで行きましたが、
勅許が得られなかったので直弼か
らの罷免でした。
直弼とはそれまで開国派として仲
が良かったのですが、勅許を出し
て欲しかったので一橋派になって
いたのも罷免の原因でした。
1864年に正睦は佐倉城三の丸
の松山御殿において失意のうちに
死去します。享年54でした。
赤い所は空堀です。
⑥の横にある空堀です。
二の門跡の看板が見えます。
二の門跡の解説板です。
武器庫として使用されました。
門の内側は二の丸です。
門幅は8間(約14.4m)です。
二の門の古写真です。
今回はここまでで、明日に続きます。
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