山形城(日本100名城) 3  最上義光(もがみ よしあき)騎馬像と桜 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は最上義光騎馬像と桜です。

二の丸東門内に入りました。

 

二の丸東大手門の内側で咲いて

いた枝垂れ桜です。今年は春が

はやいのでかなり散っています。

後の回で堀に出来た花筏のUP

もします。とにかく桜が残っていて

良かったです。

 

二の丸東大手門の内側で咲いて

いた枝垂れ桜です。

 

二の丸東大手門です。

もらったパンフレットからの引用です。

 

枡形櫓門の内側です。

晴れているのに小雨が降り

カメラのレンズに付着してます。

 

カメラを左に回すと

 

 

 

二の丸内から撮影した東大手門です。

 

二の丸東大手門を背景に記念撮影しました。

 

現在地にあった観光案内板です。

 

最上義光公騎馬像です。

 

最上義光公騎馬像です。

 

最上義光公騎馬像です。

前足だけで立つ騎馬像は寄贈者である

鈴木傳六(でん六創業者)たっての意向

で、大変難度の高い技術を用いている

そうです。しっぽも地面に着いてないの

で不安定ですね。足に強力な補強をして

いるのでしょう。

 

騎馬像の解説板です。

兜と顔は東北の関が原と言われる

長谷堂合戦を描いた『長谷堂合戦

図屏風』(江戸時代の中期)での、

最上義光が上杉軍を追撃す姿が

参考にされたようです。

最上義光は身長が180cmもある

大男だったそうです。

最上義光愛用の鉄製の指揮棒は、

重量およそ1.8kgあり刀の約二

倍もありました。蔵王温泉には家

と力比べをして、ただ一人だけ

持ち上げたという「義光公の力石」

が残されています。

 

『長谷堂合戦図屏風』(江戸時代中期)

(最上義光歴史館所蔵)

関が原合戦で西軍壊滅を知り退却する

上杉軍を追撃する最上義光軍の屏風図

です。上杉軍は直江兼続が殿でした。

 

拡大した最上義光です。

実際の肖像画がありません。

 

長谷堂合戦で最上義光が

使用したと伝えられた兜で

す。(最上義光歴史館所蔵)

銃弾の跡があります。穴が

多すぎる感じもあります。

右上の1つは本物かと考

えられます。

 

『長谷堂合戦図屏風』を拡大した、

上杉軍の中に描かれた直江兼続

です。「愛」の文字兜ではないです。

 

最上義光

 

1546年に最上家第10代当主の

最上義守と母・小野少将の娘との

間に長男として生まれる。

1560年に元服し室町将軍:足利

義輝より偏諱を賜り、源五郎義光

と名乗ります。

伊達氏からの独立性を回復して、

推し進められてきた

1560年3月に寒河江城攻めに

初陣を飾っています。伊達氏から

の独立を回復したい、父:義守の

領土拡張策でした。しかし、この

寒河江攻めは敗北で終わります。

1564年には義光の妹:義姫が

伊達輝宗に嫁ぎ、1567年には

長男・梵天丸(後の伊達政宗)を

生みます。

1570年頃に父の義守と嫡男の

義光父子の間で諍いが生じます。

5月に重臣:氏家定直の仲裁で

父子が和解し、8月には義光が

家督を相続します。

伊達家からは独立したのですが、

家督相続を巡る一連の抗争が

子の義光の勝利に終わった後も、

最上氏庶流の天童頼貞・東根

頼景・上山満兼などは依然とし

て義光に従わず、谷地城主の

白鳥長久は、中央の実力者:

織田信長に出羽守への推任を

願い出ています。

羽州探題として最上氏の勢威

を回復させるための戦が続きま

す。正室を大崎氏より得て盟約

を結び、1575年に嫡男義康が

誕生します。

1588年2月に伊達政宗が1万

の軍勢で義兄:大崎義隆を攻撃

すると(大崎合戦)、義光は援軍

を派遣して義隆と共に戦います。

、このとき義光の妹:義姫が両

軍の間に自分の乗った駕籠を

置かせて停戦を懇願したため、

両者は和議を結んでいます。

1590年に豊臣秀吉の小田原

征伐に参陣します。宇都宮城

で秀吉に拝謁します。義光は

6月に参陣したことから所領

13万石だけを安堵されました。

1591年正月に京都に上洛し、

従四位下侍従に補任されます。

1592年朝鮮出兵に備えて、

肥前名護屋に滞陣しますが、

渡海はせずに済みました。

1595年に豊臣秀次事件が

起きると、秀次の愛妾だった

、娘の駒姫は処刑され、義光

も聚楽第に拘禁されます。

娘の除名嘆願を家康に頼

みますが、叶いませんでし

た。それで家康とは親しく

なったようです。

1600年に家康は会津の

上杉景勝謀反を理由に出

兵しますが、石田三成の西

軍挙兵で、関西に進軍しま

す。上杉軍2万以上が山形

城に攻めてきますが、義光

は約2000丁の火縄銃と、

3千人の城兵で山形城を

死守しました。義光は以前

から堺の鉄砲職人を呼び

寄せるなど、鉄砲の装備

充実に懸命でした。上杉

軍も2000丁で撃たれると

近づくことも困難だったこ

とでしょう。

この時はまだ山形城に三

の丸がありませんでした。

上杉軍の直江兼続は伊達
氏と戦わない協定をしてい
ましたが、山形城に里帰り
中だった伊達政宗の母:
義姫が政宗に援軍を要請
する手紙を5回もだして、
政宗重臣の留守政景率い
る援軍が来ますが見守る
だけでした。

 

上杉軍の直江兼続肖像画です。

「愛」の字の前立て兜で有名

 

9月29日に上杉軍は関ヶ原

の戦いの敗報を聞いて長谷

堂城の包囲を解き、米沢城

に退却します。西軍敗戦の

報を聞いた義光は、家臣:

堀喜吽の制止に「大将が

退却してどうやって敵を防

ぐのか」と反論し、先頭に

立って上杉勢に追いすが

ります。しかし、敵の一斉

射撃に襲われ、堀喜吽は

戦死し義光自身も兜に着

弾します。この時までには

はさすがに、伊達や南部の

援軍が来てくれました。

 

『長谷堂合戦図屏風』(江戸時代中期)

退却する上杉軍を追う義光です。

 

1601年に家康より最上義光は

上杉軍を撃退した功により、山形

57万石を拝領します。

三ノ丸を造成し家臣の屋敷にし

ます。

 

江戸時代初期の山形城古絵図です。

 

西国の加藤・福島・黒田氏並み

の加増でした。この時に周辺の

仲が良くない豪族まで家臣にし

たことが、家中内での対立を生

んでしまいます。

1614年1月18日に山形城で

病死します。享年69。葬儀当日、

寒河江肥前守、寒河江十兵衛、

長岡但馬守、山家河内守の4人

の家臣が殉死しました。

義光は連歌を愛する文化人で

もありました。鮭が大好物だっ

たとも言われます。

 

義光の死からわずか9年後に、

後継者をめぐって内紛が発生

し、幕府の仲介でも解決しなか

ったため、家中不届きであると

して、1622年に改易されます。

(最上騒動)

最上義俊は近江大森藩1万石

を与えられたが早世し、後を継

いだ最上義智は幼少のために

に5千石に減らされ、以後の

最上家は交代寄合として明治

維新を迎えました。

 

 

今回はここまでで、明日に続く

 

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