佐賀城(日本100名城) 1 歴史 | みどりの木のブログ

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毎日UPでブログ

加筆しましたので、再UPしました。

今回からは佐賀城(日本100名城)の

紹介です。

2012年4月3日に訪問しました。

 

島原城では散った桜がまだ

残っていました。背景は櫓

です。下写真の右側の桜を

マクロ撮影しています。

 

駐車場横の桜です。

 

初めは佐賀城の歴史です。

 

平安時代末期

 

藤原季喜が龍造寺村の領主になって

土着し、藤原季喜の子が龍造寺を名

乗り龍造寺村に土着しました。

なので、初めは龍造寺氏の館でした。

龍造寺氏館(村中城)の場所は、下図

若楠会館と佐賀西高校グランド付近

でした。

倉幕府成立以前の肥前国は、比較的

小規模な領主がたくさんいる状態でし

たが、幕府はその土地に長く住みつい

ている領主たちを小地頭として御家人

の中に編入していきました。

 

 

上図①付近から見た林の中が

村中城でした。江戸時代まで

土塁だけで石垣はありません

でした。この内堀は幅80m

もあります。

 

戦国時代

 

龍造寺氏の館は村中城(龍造寺城)

として拡張されました。

1569年に大友宗麟は筑後国高良山

の吉見岳城に本陣を置き、佐賀平野

の北から大軍で攻めてきました。

村中城(龍造寺城)の周辺は焼かれ、

城は窮地に追い込まれ、大友と和議

としました。

1570年再び宗麟は大軍で佐賀に

攻めて来ます。龍造寺軍は村中城に

籠城します。重臣の鍋島信正(後の

鍋島直茂)は、夜襲により今山の陣

で大友軍の総大将の大友親貞を討

ち取り龍造寺氏が勝ちます。

 

鍋島直茂の肖像画です。

 

安土桃山時代

1584年九州北部を押さえた龍造寺

隆信は、島津・有馬連合軍に敗れて

戦死します。以後は重臣の鍋島直茂

が実権を握ります。

 

龍造寺隆信肖像画です。


1585年に直茂は村中城改修を計画

します。しかし、名ばかりの当主であっ

た龍造寺政家の居城であり、直茂は

蓮池城が居城であったため、主家に

はばかって計画だけで終わります。

関ヶ原では西軍に与したが、同じ西軍

の立花宗茂を攻略することで、所領を

安堵されました。

 

江戸時代

  

1602年に本丸の改修から始めます。
1607年に主家の龍造寺家との確執

がありましたが、龍造寺政家と嫡男・

高房が短期間で急死します。

鍋島直茂は龍造寺家より嫁を貰って

いたことや、龍造寺の重臣たちの多

くが、龍造寺本家より鍋島直茂がリ

ーダーとなって欲しいとの要望もあり

ました。なので、

徳川家康により、鍋島氏が正式に

佐賀藩(35万7千石)の藩主と認め

られて、佐賀藩内では龍造寺家は

龍造寺本家として君臨すれど統治せ

ずの立場に置かれました。

直茂の築城計画どうりに、次の藩主

鍋島勝茂が1611年に佐賀城を完成

させました。内堀の幅は80mにも及

ぶ広さでした。

 

江戸時代初期の幅80mの

内堀と佐賀城本丸絵図です。

 

江戸時代の佐賀城下町全体図です。

 

高さ38mの外観4重内部5階建ての

天守も建造されました。

しかし、元和の一国一城令でかつて

の鍋島家居城蓮池城は破却されま

した。

鍋島氏は35万7千石の国持大名

でありながら、その実情は3支藩

(蓮池、小城、鹿島)・鍋島4庶流

家(白石、川久保、村田、久保田)

と龍造寺4分家(多久、武雄、諫早、

須古)の各自治領があったため、

藩主の実質知行高は6万石程度

でした。江戸時代には特に3支藩

はしばしば独立色を出したがり、

勝手に幕閣に城主格への昇進の

運動をしました。

1726年には大火に見舞われ、

天守以下本丸建造物の大半を焼

失します。これにより御殿などが

1728年に二の丸に完成して、

藩政は二の丸を中心に行われ

ます。天守は享保の火災以後

再建されていません。

1835年にも火災で二の丸を焼

失。このために再び本丸再建が

行われ政務は本丸に移ります。

 

1838年本丸に再建された御殿図

 

現存する鯱の門と続櫓はこの

再建時の1838年に、本丸に

完成したものです。

 

鯱の門古写真です。

 

大正時代に撮影された本丸玄関と

右端に鯱の門があります。

 

 

 

幕末から明治
 

近世には長崎警備を担い、重い

財政負担に苦しみますが、幕末

に至って10代藩主鍋島直正が

抜本的な藩政改革を断行して、

西洋技術の積極的な移入を果

たします。藩校弘道館を拡充し

て人材育成をします。これによ

り雄藩の一角を占めます。

その他にも、天然痘が流行し

たので、ワクチンを輸入して

世継ぎの長男に接種し、ワク

チンを世に広めました。

 

名君の鍋島直正の古写真です。

 

反射炉絵図です。

 

日本初の鉄製大砲であるカノン砲

です。幕府に頼まれて50門を製造

して品川台場に設置しました。

 

 

解説板です。

 

ライフルだったアームストロング砲です。

上野戦争で使用されました。

爆裂弾を有効射程1.5Kmで発射出来

ました。

 

解説板です。

 

上野寛永寺攻撃に使用された

アームストロング砲の絵図で

す。旗に鍋島家家紋がありま

す。

 

倒幕には遅くに参加したため、

薩長に及びませんでした。

1874年(明治7年)江藤新平

を中心とした佐賀の乱が起こり

佐賀城は反乱軍に一時占拠さ

れます。この戦闘の際に建造

物の大半を失ないます。

鯱の門には当時の弾痕が現在

も生々しく残っています。

 

鯱の門に残る弾痕です。

 

以後、佐賀城址には学校・県

庁など公共施設が次々と建設

されました。 鯱の門と続櫓は、

1957年に国の重要文化財

に指定されました。

本丸御殿の一番奥にあり天保

期の建物と見られる「御座間」

は鍋島直正の居室であったが、

1958年に水ヶ江大木公園に

南水会館として移築されます。

 

藩主の居間だった御座間です。

 

2001年に市の重要文化財に

指定され、2004年本丸御殿

の復元に伴い元の位置に戻さ

れました。

 

2006年4月に日本100名城

に選定されました。

 

今回はここまでで、明日に続く

 

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