津山城(日本100名城) 16 天守台からの眺め | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今回天守台からの眺めです。

 

在りし日の天守古写真です。

この上から眺めてみたかった

ですが、明治初期に撤去され

て残念です。森忠政の領する

津山に5重天守が建ったこと

を知った幕府は、忠政にこの

旨を問い詰め、忠政はとっさに

「4重である」と主張したが

、幕府は謀反の疑いから津山

に調査の使者を差し向けます。

忠政は家臣伴唯利を津山に

先回りさせて、天守の4重目

の屋根瓦を破棄し「あれは

庇(ひさし)であって4重です」

と言い切り、難を逃れたという

話があります。4重目の上は

瓦が無くて、庇にも見えます。

 

今回は天守台(高さ3間)の

上からです。

 

津山市内がよく見えます。

手前に見える三角の石は

天守台の角の石です。

下図の北西方向です。

 

グーグルより(上が北)

 

カメラを右に回すと

 

北方向です。

 

1697年の津山城絵図です。

①は下図の①付近ですが、

江戸時代は石垣で仕切ら

れていたようで、このよう

な出入口はなかったよう

です。

 

①は後世に造られた出入り口です。

 

さらにカメラを右に回すと

東方向は

 

東方向です。

工事中で近づけません。

鐘つき堂が見えます。

本丸跡に御殿が何も

無いのが悲しいです。

ズーム拡大すると

 

ここは下図にあるように

2階の太鼓櫓があった所

です。現在は鐘つき堂に

なっています。

石垣工事中で柵があり

近づけませんでした。

津山城の鐘楼による時

報は慶長十二年(1607)

から始まったとされていま

す、慶長十二年といえば

津山城の築城に着手して

からわずか三年後です。

築城祝いに細川忠興が

森忠政に贈った南蛮式

釣鐘です。天守の最上階

に吊るされて、慶長十七

年までは鐘が津山城下

に時を知らせていました。

その後は鐘から太鼓へ

と引き継がれ、太鼓での

時報は以降二百六十年

間にわたって続きました

が、明治四年に鐘に代

わり、その役目を終える

ことになりました。

(津山百聞録による)

明治4年から使われた

鐘が太鼓櫓跡にあるよ

うです。かたちから分か

るのは、細川忠興が森

忠政に贈った南蛮式の

釣鐘ではないことです

ね。現在は自動鐘つき

機で鳴らしているので、

鐘守が不要です。

昨日のTVで延岡城で

は市役所が鐘守を雇

い鐘を鳴らしていると

放送していました。

延岡城は以前紹介し

ましたが頑張っていま

すね。
 

 

 

さらにカメラを右に回すと

 

東南方向で備中櫓が見えます。

 

 

さらにカメラを回すと

 

南西方向です。

 

穴蔵に降りて穴蔵を出ると

 

後世出来た①の出入口から

天守曲輪を出ました。

 

1697年の津山城絵図です。

①付近に出入口が出来ています。

 

工事中の所に入れないので

本丸裏から降りました。

 

今回はここまでで、明日に続く

 

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