高崎城 1 歴史 | みどりの木のブログ

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3日おきに更新しています。

今回から井伊直政が箕輪城(昨日紹介)

から引っ越した先の高崎城紹介

です。高崎城は1598年に徳川

家康の命を受けて、箕輪城主

の井伊直政によって築城されま

した。1600年の関ケ原の戦い

で直政は、家康を島津隊から守

り重傷を負いますが、おかげで

加増されて石田三成の居城だ

った近江の佐和山城を拝領し

ました。

 

グーグルマップより高崎周辺

地図です。

 

高崎城は郭内だけでも5万坪

を超える広大な城郭でしたが、

現在は三の丸の土塁と堀、乾

櫓、東門が残っているだけで

す。明治以降陸軍が駐屯した

ので、内堀が埋め立てられ、

外堀だけが残る城です。

 

右が北のグーグル地図です。

並木のある外堀とその土塁が

残りました。

 

外堀と土塁(土居)です。

 

 

今回は歴史です。

 

鎌倉時代

 

和田義盛は坂東八平氏の一つで、

三浦氏の三代目当主だった杉本

義宗(1126~1164)の長子で、

相模国三浦郡和田を領して和田

氏を称しました。
義盛は源頼朝にしたがって多く

の武功をあげましたが、頼朝の

死後、北条氏と対立し和田合戦

で義盛は戦死し、和田一族は滅

亡します。しかし、義盛の八男

義国は乱戦の中を潜り抜け上野

国(群馬県)に落ちのびました。

1230年ごろ和田山(赤坂村)

に住み着いたといいます。和田

氏が住んだので和田という地名

になったようです。

 

1428年に和田義国が下図の

赤丸印の西郭付近に和田城を

築きました。

 

江戸時代の高崎城です。

赤丸の西郭付近に和田城が

ありました。

 

高崎城グーグルより

国道17号線の17と表示された

付近にありましたが、この道路の

改修工事で破壊されて、和田城

の遺構は全く残っていません。

 

国道17号線が改修される

前の古写真です。

鳥側沿いに和田城跡櫓台

が見えます。

 

現在地にある現在の高崎城です。

下が北の地図です。

 

 

戦国時代

 

和田氏ははじめ関東管領上杉氏に

従っていましたが、その勢力が衰

退すると、他の上野の豪族と同様

に北条氏・越後上杉氏・武田氏の

争いに翻弄されました。和田氏は

箕輪の長野氏の配下と認識されて

いたようです。

和田氏は長野氏滅亡後に武田氏か

ら北条氏と主君を変えます。

豊臣秀吉軍が1590年に北条氏を

攻めたとき、和田城主は小田原に

いて、和田城の留守を預かる兼業

は、前田利家・上杉景勝等の連合

軍に大軍をもって包囲され降伏し、

和田城も廃城となりました。

和田城主は高野山送りになります。

その子和田業勝は和田氏滅亡後は

会津の保科氏に仕えたといいます。


井伊直政は1590年に箕輪城を

拝領し14万石となりますが、

1598年に和田城のあった地に

高崎城の築城を開始しました。

この地は中山道と三国街道の

分岐点に当たる交通の要衝で

あり、その監視を行う城が必要

とされたためです。1598年に

直政は箕輪城から、築城中の

高崎城に移ります。

 

 

江戸時代の完成した高崎城です。

この絵図にグーグルマップを重ね

て半透明にしました。

 

重ね合わせた地図です。

 

直政は入城に際して、和田を

「高崎」(箕輪城下に直政が

創建した恵徳寺の開山龍山

詠潭和尚の「松は枯れること

があるが、高さには限りがな

い」との進言により)と改名し

ました。箕輪より町家や社寺

を移して城下町を築きました。

政は2年後に近江佐和山

城へ転封となり、工事は一時

中断します。

 

江戸時代

 

1633年には、3代将軍徳川

家光の命により、高崎城に幽

閉されていた、家光の実兄で

ある徳川忠長が自害しました。
 

その後、藩主が安藤氏の時代、

1692年に城が完成しました。

 

天守代わりの3階櫓古写真です。

 

江戸時代の藩主家は諏訪氏、

酒井氏、戸田氏、松平(藤井)

氏、安藤氏、松平(長沢・大河

内)氏、間部氏、松平(長沢・

大河内)氏と譜代大名が入れ

替わりました。

 

明治維新後


 明治時代になると陸軍省の

管轄となり、明治6年(1873

年)廃城令により存城となり、

第3師官官内分営所が置かれ

た。以後建造物は競売か破却

され、跡地の大半は歩兵第15

連隊の駐屯地となりました。

 

1974年に乾櫓が市内の農家

に払い下げられ、移築されて

納屋として利用されてましたが、

 

納屋として利用されていた

乾櫓古写真です。

 

移築復元された乾櫓です。

 

群馬県指定重要文化財に指定

されたのを期に、三の丸模擬

石垣上に移築復元されました。

また、東門も同じく農家に払い

下げられていましたが、昭和

55年(1980年)に乾櫓近く

に移築復元されました。

 

移築された東門です。

 

市内の長松寺には徳川忠長

が自刃したという書院が移築

されて、庫裡となっています。

 

長松寺Webページより

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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