延岡城(続日本100名城) 9 西の丸藩主御殿跡 最終回 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は西の丸藩主御殿跡です。最終回です。

本丸や二の丸がある所は千人殺しの石垣があ

り、御殿を造営して住むのは危険があるためか、

藩主御殿は離れた所の西の丸に造られました。

 

有馬氏時代の古絵図です。(上が北)

西の丸を拡大すると

 

有馬氏時代の西の丸です。

 

内藤氏時代の西の丸です。

 

有馬氏時代も内藤氏時代も御殿が、

上図の西の丸にありました。

現在のグーグル写真では

 

現在の西の丸です。(今は更地です)

藩主御殿は明治維新の廃城で撤去

されたのち、内藤家が東京の別荘と

して、明治25年(1892年)に新しく

御殿を建設しました。昭和20年6月

の延岡大空襲により建物は焼失しま

したが、蔵や東門は焼失を免れてい

ます。その後は市に寄贈されました。

戦後財産を維持するのに大金がか

かるので、市で管理維持してもらう

のが一番良かったです。

馬屋だった所が図書館・教育委員会

などになっています。

藩主の御殿跡が内藤記念館になって

いますが、昭和38年完成以来、市民

に親しまれた内藤記念館の老朽化で、

この度、新たな機能を備えた文化施

設を建設することとなり、その工事の

ため、平成29年3月31日をもって閉

館しています。館内に展示されていた

歴史資料などは、規模を縮小して、

延岡市役所南別館で展示しています。

建て替え工事完了後の、2022年

に床面積を約2.5倍にしてオープン

する予定です。

なので、グーグルストリートビューな

どで閉館前の様子を紹介します。

 

上図Eから見ると現在は

 

上図Eから見た内藤記念館入口です。

石垣に昔の面影が残っています。

階段を上がると高麗門があります。

中にはいると

 

空襲から焼け残った東門(高麗門)です。

この反対側は

 

内藤記念館の玄関です。

 

館内の様子は

 

焼き物など

 

右が内藤家の資料や、左が若山牧水の

史料です。

 

後藤勇吉の資料です。

 

その他に能面や農作業で使う民具も

展示してあります。

 

庭には松尾芭蕉の句碑があります。

 

松尾芭蕉が詠んだと言われる俳句「西行の庵も
あらむ花の庭」が刻まれた句碑。碑の建立年は
芭蕉没後の文化12年(1815年)です。もとは

今山神社の境内にありましたが、昭和41年に

現在地へ移設されました。毎年4月には「芭蕉

句碑祭&俳句大会」が開催されます。

 

民具とともに古民家も保存しています。

 

昭和40年(1965年)に高千穂町から移築

した寄棟造り・茅葺屋根の古民家。築150

年と言われ、建物内部には囲炉裏や土間、

和室が3間あり、昔の農家の暮らしぶりを

今に伝えています。現在では、市民の憩い

の場となっていて、4月には「いけばな展」

が開催されています。

 

これで延岡城の紹介は終わりです。

明日からは鹿児島城の紹介です。

 

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