興国寺城 1  歴史 | みどりの木のブログ

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今回から興国寺城の紹介です。

 

歴史

 

興国寺城は根古屋と青野の境にある、篠山と

いう愛鷹山の尾根を利用して築かれています。

 

下図三の丸のバス停辺りからの撮影です。

続日本100名城の旗が立っています。

遠く鉄塔右に小さく富士山も見えています。

 

光学60倍にズーム撮影しました。

 

日本続100名城スタンプは神社にあります。

 

広島浅野家が江戸時代に作成した

興国寺城跡の絵図です。

清水曲輪と北曲輪が描かれていません。

 

グーグルより興国寺城跡です。

現在は周囲の堀と池が埋め立てられて

ありません。

 

興国寺城は沼津市にあります。(グーグルより)

 

現地の解説板です。「今川義忠の側室で

あった妹を頼り」とうい説もあります。

 

この城は戦国時代に関東一円を支配した北条

氏の祖である伊勢新九郎盛時(北条早雲)の

旗揚げの城として有名です。

 

北条早雲の肖像画です。

 

北条早雲が伊勢新九郎盛時と称していた時、

室町幕府将軍の申次衆を務めたが、駿河の

守護今川氏とは北川殿(姉か妹)が今川義忠

の正室というつながりがあり、1476年に今川

義忠が急死すると、その後の家督争いで彼の

甥(北川殿の子供)である、今川氏親を助けた

功により、1488年頃に富士郡下方12郷を

与えられ、興国寺城主となったといいます。

その後、早雲は1493年に伊豆韮山の堀越

公方足利茶々丸を襲って伊豆国を支配下に

置き、戦国大名となります。早雲は鎌倉幕府

の執権北条氏の北条を名乗り、昔からの縁

を利用して、鎌倉周辺にもその支配力を広げ

ました。その支配は年貢が4割と、他の支配

者よりも1割以上少ないので、百姓は早雲の

支配を受け入れたといいます。

興国寺城は武田・北条・今川・徳川の戦国

大名による領地争い境界の城として、争い

の渦中におかれます。関ケ原の戦いの後

1601年に徳川家康の家臣天野三郎兵衛

康景が1万石の城主となります。しかし、

康景は家臣をかばい自ら逐電してしまった

ため、天野家は改易になり、1607年には

興国寺城が廃城となりました。

 

現地解説板です。

天野三郎のいきさつが詳しく書かれています。

 

 

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