大垣城の紹介10 天守内部2 杭瀬川の戦い | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

関ケ原の戦い直前の杭瀬川の戦いです。

 

天守内部はコンクリート造りなので、

階段も上り易いです。

 

今日は杭瀬川の戦いです。

 

1600年8月10日石田三成が大垣城に入り、本陣とします。

東軍は8月24日に岡山を本陣にします。9月14日に徳川

家康が岡山に来ます。関東で上杉軍と戦っていると思って

いた西軍に動揺が走り、逃走する西軍兵も出ました。

 

グーグルより引用の杭瀬川です。

日吉神社の周辺が戦場になりました。

関ケ原が左端にあります。

 

大垣城天守4階から撮影した西方向です。

中央上の杭瀬川方向を拡大すると

 

天守4階から見た杭瀬川方向です。

 

大垣城天守から見た岡山の東軍の想像図です。(天守内展示)

 

上杉軍のために、家康が江戸にいると

考えていた西軍が、家康が岡山(現在

の岐阜県大垣市赤坂町字勝山)にある

安楽寺に来たと聞いて動揺します。

 

西軍の戦意を高めようと、島左近が敵地の稲刈りを

して敵を挑発し、挟撃する計略を成功させます。(天守内展示)

 

杭瀬川は、大垣城と赤坂の中間部にある川で、周辺には森林が

あり、島左近はこの中に一隊を伏せて伏兵とし、残る部隊で対岸

へ渡り、東軍中村一栄隊の前で苅田を始めた。この挑発に中村

一栄隊の将士が乗って小競り合いが始まり、まもなく有馬豊氏隊

も参加して乱戦となった。島左近はある程度戦うと、敗れた風を

装って退却をはじめ、両隊を杭瀬川に釣り出す事に成功します。

追撃した中村・有馬隊は伏兵の銃撃を受けて混乱状態に陥り、

さらに宇喜多家の明石全登が参戦して両隊は被害を受けて敗

走します。東軍中村家の家老・野一色助義が戦死するなどで、

東軍約40人が西軍によって討ち取られました。

 

杭瀬川の戦いジオラマです。(天守内に展示)

 

杭瀬川の戦いジオラマです。この時の天守は3階でした。(天守内に展示)

 

戦場となった杭瀬川にある日吉神社です。

この辺りが戦場と言われています。

この右側は

西軍側から見た杭瀬川です。(グーグルストリートビューより)

 

大阪市博物館にある関ケ原合戦図で杭瀬川の戦いです。

 

戦いの後を見ていた家康は負け戦に動揺しませんでした。

家康は「たぬきおやじ」なので内心は気にしていたようです。

このために関ケ原に移動したと思います。こんどは大阪に

行かれては大変だと思った、石田三成が誘き出されます。

 

今日はここまでで、明日に続きます。

 

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