大垣城の紹介7 おあむ物語と明治の天守洪水跡 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

昨日の続きです。

 今日は関ケ原合戦後の、

大垣城おあむ物語からです。

 

戌亥隅櫓とおあむの松です。

2代目おあむの松です。1代目

の松は第二次大戦直前に枯れ

ています。

 

江戸時代の本丸です。

 

おあむの父である山田玄暦は「家康の手習い師匠

であったので逃がす」との矢文があり、この松に上

り内堀のたらいに乗って、三の丸に逃れ助かりまし

た。このとき三の丸の武士は降伏していました。

 

『おあむ物語』、『御庵物語』とも書かれて、おあむは「御庵」のことで、

おあむの名前は不明です。石田三成の家臣・山田去暦の娘であった

老尼が、少女時代に体験したことを子供たちに語った話を、聞いた人

が書き残した筆録です。 1711年 ~1716年頃の出版です。

「子供集まりて、おあん様、昔物語なされませといえば」の書き出し

で始まり、老婆おあむの昔の思い出を語る内容です。

 

おあむ物語の内容です。

 

おあむの父親の山田去暦は武士で、彦根の佐和山城で暮らし、

1600年の関ヶ原の戦いの頃は石田三成の配下として大垣城

にいました。おあんは徳川家康方の軍勢から石火矢を打ち込

まれる中で、母や城内の女性たちと城の天守にて鉄砲玉を作

り、味方が討ち取った敵将の首に札を付けて天守に並べては、

毎夜これにお歯黒を付ける作業をしていました。お歯黒付き

の武士は身分が高いとされ、のちの恩賞のためお歯黒首をつ

けています。そこで寝泊まりしました。また、目の前で14歳の

弟が撃たれて死亡して、明日は落城という日には、父母や家

来と共に、松に梯子をかけて城を脱出し、逃亡の途中で母が

女児を出産した際は田の水で産湯を使ったことなどが語られ

ます。おあむはまた、彦根時代は貧しく、1日2食で、着る物も

13歳から17歳まで同じ帷子一枚だったと語り、今時の若者

は衣服に凝り、金を費やし、食べ物に様々な好き嫌いがあり、

沙汰の限りであると言っています。土佐に落ち延びて結婚し、

80歳で亡くなりますが、彦根時代の話を持ち出して子供

たちを叱ったため、子供たちからは「彦根婆」と呼ばれ、老人

が昔のことを語るのを、土佐では彦根と呼ぶようになります。

 

 

天守内にあったおあむの城脱出姿です。

 

2018年に大垣市がプロジュースしたアニメが公開されました。

YouTubeから引用しました。9分です。

 

「おあむ物語 その夏、わたしが知ったこと」(9分)

 

次に大垣の大洪水です。

 

天守石垣の角にその痕跡があります。

 

天守石垣の角です。

 

明治29年の大洪水解説板です。

大垣町の約80%の家が、屋根ま

で達する浸水をしました。

その記録を残そうと、前々回紹介

の金森吉次郎が私財で建てた洪

水碑があります。

 

石に横線が引いてあり、その上に字が

刻まれています。

 

今日はここまでです。明日に続きます。

 

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