金沢城の紹介8 鶴の丸土塀から新丸 最終回 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今日は鶴の丸の土塀からです。

 

鶴の丸土塀です。

下図の赤丸の位置から撮影しています。

江戸時代後期の古絵図です。

 

昨日解説した構造で、なまこ壁の中には石が詰められています。

塀の屋根は鉛葺きです。

 

解説板です。

 

 

次は新丸です。

新丸は時間が無く行けなかったのですが、

その歴史は江戸時代初期に重臣屋敷が

ありました。新丸の東側には、もと剣術の

達人であった富田越後守重政の邸宅が

ありました。そのために名前を由来とした

「越後屋敷」があり、藩主が江戸に出向い

ているときには、ここに重臣たちが寄りあ

って政務を執りました。

 

 

その他には「作事所」や「下台所」などがありました。

「作事所」は城内外にある石垣など、城関連施設の

建築や修繕をした役所です。「下台所」は城内勤務

する藩士・足軽などの料理を作る場所でした。また、

「割場」は足軽・小者などの仕事を割り当てる役所

でした。宝暦の大火以前には、藩主の武具などの

制作にあたっていた「細工所」もこの新丸にありま

したが、その後、「堂形」の方に移されました。この

絵図からは「作事所」と「下台所」の間には堀があ

ります。堀の左側(越後屋敷側)が作事所で、右側

が下台所・割場です。

 

明治になると

 

大手門口⑪から河北門までをグーグルストリートビ

ューの引用から紹介します。

現在の現地観光案内図です。

 

明治以後の新丸は、陸軍の「第9師団司令部」が置かれました。

そして、「新丸」には「第7歩兵連隊」の兵舎が立ち並びました。

 

太平洋戦争後は金沢大学の敷地となります。

下図は1950年頃の写真です。

金沢大学の木造校舎だらけになります。(金沢市Webぺージより引用)

新丸は教養学部の校舎やグランドとなっています。

 

移転前の1975年の金沢大学です。(ウイッキペディアより引用)

鉄筋コンクリート造の校舎がたくさんあります。

 

平成8年に大学は金沢市郊外に移転しました。

その後、石川県が跡地を譲り受けて、復元が

始まりました。

現在の金沢城です。(グーグルより引用)

新丸は大学の校舎が撤去されて、

広い芝生広場になっています。

 

大手門からの河北門までの、グーグルストリートビューによる写真は

 

大手門口です。右側に大手掘があります。

 

直進すると

⑫の大手門枡形跡です。巨大な石が使われています。

右に曲がると

大手門のあった所です。

進んで右側は

打ち込み接ぎの石垣なので、造成されたのは

江戸時代初期と考えられます。

新丸の中は

⑬から見たところです。芝生広場になっている新丸です。

河北門櫓が見えます。

 

現在の現地観光案内図です。

 

⑭から見た左側が河北門で、

右側が菱櫓です。

河北門前の坂を登ると

⑮から河北門枡形が見えます。右の出窓は監視用のにらみ窓です。

 

前田家の大名行列は、新丸大手門から入り、

新丸内を通り、この河北門から三の丸に入り

ました。三の丸から橋爪門を通り、御殿のあ

る二の丸に入りました。

二の丸御殿の古写真見つかるといいですね。

 

これで金沢城の紹介を終わります。

明日からは5月の連休にあった、第2回道明寺まつりの紹介です。

 

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