昨日の続きです。
今日は鶴の丸の土塀からです。
鶴の丸土塀です。
下図の赤丸の位置から撮影しています。
江戸時代後期の古絵図です。
昨日解説した構造で、なまこ壁の中には石が詰められています。
塀の屋根は鉛葺きです。
解説板です。
次は新丸です。
新丸は時間が無く行けなかったのですが、
その歴史は江戸時代初期に重臣屋敷が
ありました。新丸の東側には、もと剣術の
達人であった富田越後守重政の邸宅が
ありました。そのために名前を由来とした
「越後屋敷」があり、藩主が江戸に出向い
ているときには、ここに重臣たちが寄りあ
って政務を執りました。
その他には「作事所」や「下台所」などがありました。
「作事所」は城内外にある石垣など、城関連施設の
建築や修繕をした役所です。「下台所」は城内勤務
する藩士・足軽などの料理を作る場所でした。また、
「割場」は足軽・小者などの仕事を割り当てる役所
でした。宝暦の大火以前には、藩主の武具などの
制作にあたっていた「細工所」もこの新丸にありま
したが、その後、「堂形」の方に移されました。この
絵図からは「作事所」と「下台所」の間には堀があ
ります。堀の左側(越後屋敷側)が作事所で、右側
が下台所・割場です。
明治になると
大手門口⑪から河北門までをグーグルストリートビ
ューの引用から紹介します。
現在の現地観光案内図です。
明治以後の新丸は、陸軍の「第9師団司令部」が置かれました。
そして、「新丸」には「第7歩兵連隊」の兵舎が立ち並びました。
太平洋戦争後は金沢大学の敷地となります。
下図は1950年頃の写真です。
金沢大学の木造校舎だらけになります。(金沢市Webぺージより引用)
新丸は教養学部の校舎やグランドとなっています。
移転前の1975年の金沢大学です。(ウイッキペディアより引用)
鉄筋コンクリート造の校舎がたくさんあります。
平成8年に大学は金沢市郊外に移転しました。
その後、石川県が跡地を譲り受けて、復元が
始まりました。
現在の金沢城です。(グーグルより引用)
新丸は大学の校舎が撤去されて、
広い芝生広場になっています。
大手門からの河北門までの、グーグルストリートビューによる写真は
大手門口です。右側に大手掘があります。
直進すると
⑫の大手門枡形跡です。巨大な石が使われています。
右に曲がると
大手門のあった所です。
進んで右側は
打ち込み接ぎの石垣なので、造成されたのは
江戸時代初期と考えられます。
新丸の中は
⑬から見たところです。芝生広場になっている新丸です。
河北門櫓が見えます。
現在の現地観光案内図です。
⑭から見た左側が河北門で、
右側が菱櫓です。
河北門前の坂を登ると
⑮から河北門枡形が見えます。右の出窓は監視用のにらみ窓です。
前田家の大名行列は、新丸大手門から入り、
新丸内を通り、この河北門から三の丸に入り
ました。三の丸から橋爪門を通り、御殿のあ
る二の丸に入りました。
二の丸御殿の古写真見つかるといいですね。
これで金沢城の紹介を終わります。
明日からは5月の連休にあった、第2回道明寺まつりの紹介です。
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