桂離宮の紹介2 表門から御幸門まで | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今日は表門からです。

 

表門です。進んで角を左に曲がります。

 

さらに進むと当日参観の人が並んでいました。

当日受付もありますが、人数が先着100名程度です。

予約では1回につき35名で集団になり参観します。1日

6回の参観があります。詳しくはここのリンクにあります。

 

 

私は11時に予約して来ました。

 

昔と違い数年前から、外国人が多いので毎日参観

出来るようになりました。

午前10時頃に着いたので、入り口で待ちました。

 

①の通用門です。ここから入場します。木製橋の上に土が置かれています。

右側に見える水路が新しい樋門からの水路です。

 

待合所にあった絵地図です。ピンクの線に沿って見学しました。

表門はこの絵図では御成門(左上)とあります。

 

下の地図①です。この通用門が午前10時40分ちょうどに開きました。

この右側には

 

老木に洞があります。


桂の地は古くは藤原氏の所有地で、平安時代には藤原道長の

別荘(当時は「別業」といった)である桂殿が営まれました。また、

『源氏物語』「松風」帖に登場する光源氏の「桂殿」はこの地にあ

ったという設定で、物語に登場する冷泉帝は「月のすむ川のをち

なる里なれば桂の影はのどけかるらむ」という歌を詠んでいます。

この地は風流な観月の名所としても知られていたのです。桂離宮

の近くの西京区松室には月読神社があり、桂の地名も中国語の

「月桂」の故事から来ているといいます。ブルーノ・タウトは昭和8

年5月と翌昭和9年(1934年)5月に桂離宮を参観し、その時の

所感を著作に記しています。古書院の広縁から張り出した竹縁

(月見台)から庭園を鑑賞したタウトは、その時の感動を「ここに

繰りひろげられた美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術の

もつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼

に溢れる」(篠田英雄訳)と絶賛しています。

桂離宮は八条宮家初代の智仁親王(1579年 ~1629年)によ

って基礎が築かれました。智仁親王は正親町天皇の皇孫で、後

陽成天皇の弟さんです。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となり

ますが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家を創設しました。

建設当初の古書院の建設は1615年頃と推定されます。書院、

茶屋、庭園などの造営は、八条宮家2代の智忠親王(1619年 

~1662年)に引き継がれ、加賀前田家の娘と結婚したことで、

数十年間をかけて整備され、現在の形になります。造営は親王

の企画で小堀遠州流の者が関わりました。

八条宮家は常磐井宮、京極宮、桂宮と名前を変えた後、明治の

1881年に断絶し、桂離宮は1883年から宮内省の管轄になり

ます。第二次世界大戦後は、宮内庁が管理しています。1976年

から実施された大修理で、文化庁が調査のため、中書院の地下

の発掘作業をしていた時、人工的な池の跡が発見されました。そ

こには桂離宮が造られる、以前の遺物が多数見つかっており、

智仁親王が発見した桂殿の跡地に造られたとされる証拠となり

ます。

 

庭園の現地地図です。

 

11時までこの休憩所で待ちます。

11時ちょうどにガイドさんが付いて

集団で参観に行きました。

 

上の地図②中門の所です。

 

この中門の右側には

明治時代に新しく新築された入口です。

建屋内には入れないので、庭園入口の

中門から入りました。

 

上図③の位置に入ると

ピンク色③の先に衝立松があります。この松で庭の風景を

ちらっと見せて隠すことで、見えるようで見えないところに、

美しさがあると私は思います。

 

衝立松です。

この左側は紅葉山があり

紅葉山が雨の中で紅葉しています。

雨で樹木も庭石も濡れてよりきれいに見えました。

雨水の落下が浮世絵風に見えています。

 

 

次に、地図④の御幸門の所に行きました。

③の先にある太鼓橋です。木橋ですが、

その上に土がもってあります。10月6日

ですが紅葉が始まっていました。

 

 

進むと

地図④から御幸門です。門の内側からの撮影です。すいませんブレてます。

35名の集団で移動するので、撮影では人を入れ

ないようにしていますが無理があります。ここは

移動した後に人が居なくなってから撮影したかっ

たのですが、なかなか移動してもらえないので、

集団に付いて解説も聞きたいために、中途半端

な撮影になりました。

 

御幸門の外(表門側)で説明がありました。

右側の人がガイドさんで、ガイドさんの右側にある平石は

御輿を置いたものです。門の柱が皮付き丸太です。この

門は2代目智忠親王の時に、後水尾上皇の御幸にあたり

設けられた門です。2代目智忠親王の当時は切妻屋根で

はなく、寄棟屋根で両脇に供屋を備えていました。当時は

門の形式から竹御門とも言われていました。

 

この反対側50mには表門があります。

地図⑤から撮影しました。内側から見た表門です。

後水尾上皇の御幸は、この表門から輿に乗り入門しています。

 

今日はここまでです。明日に続きます。

 

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