今日から今治城の紹介です。
松山から今治に着いた頃には夕暮れになっていました。
ホテルで夕食後、今治城のライトアップを撮影に行きました。
ライトアップされた今治城です。風が無かったので、鏡のような水面に城が映りました。
左から武具櫓・山里櫓・天守の順です。
今治城の歴史は
関ヶ原の戦いで、戦功により伊予半国20万石を領した藤堂高虎が、
瀬戸内海に面した海岸に築いた平城です。普請奉行として渡辺了の
名が知られています。別名吹揚城(ふきあげじょう)ともいいます。
海の浜辺なので、浜の砂が風でよく吹上げられていたそうです。
慶長7年(1602年)に築城を始め、完成したのは慶長13年頃との
ことです。海水が引かれた広大な堀や、城内の港として国内最大級
の船入を備えた、日本屈指の海城でした。構造は、三重の堀に海水
を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることが
できるなど、海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城と
なっています。日本三大水城の一つに数えられています。
正保(1645~1648年)時代の今治城古地図です。今は中央の主郭しかありません。
下の紺色の部分は海です。今は埋め立てられました。
二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、
城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りでした。。慶長14年
(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国
亀山城に移築されたと伝わります。なので、現在の再建天守は亀山
城の古写真をもとに再建されました。
再建天守の参考にされた、丹波亀山城の明治時代の古写真です。
高虎自身は移封されたが、今治領2万石は飛び地として残り、養子
の高吉が居城しました。寛永12年(1635年)に高吉は伊賀国名張
に移り、代わって伊勢長島城より松平(久松)定房が入城し、以後、
明治維新まで今治藩久松松平氏の居城となります。
明治維新後に建造物のほとんどが取り壊され、内堀と主郭部の石垣
を残すのみとなりました。昭和28年(1953年)に県指定史跡となり、
昭和55年(1980年)以降、主郭部跡に天守をはじめとする櫓や門
などが再建されました。
(今治城のパンフレットとウイッキペデイアより引用)
松山から今治に着くと夕方になっていました。
宿泊した今治国際ホテルから300mほどの
所に今治城があるので、夕食後歩いて見学
に行きました。
今治国際ホテルのロビーです。
夕食の料理です。
中庭です。
歩いて行くと、このホテルのネオンサインが見えました。
今治国際ホテルです。
色が変わるのです。今思えば最上階から撮影するべきでした。
夜道を赤い線に沿って歩きました。(グーグルより引用)
①からの撮影です。
風が無いので水面が鏡のようです。堀の水は海水です。
②からの撮影です。
③の少し手前の、門の前です。山里櫓が見えます。
③からの撮影です。
③からの撮影です。
④からの撮影です。階段を上がります。
⑤の門の手前です。
夜桜が満開でした。
⑥の辺りから撮影の、藤堂高虎の銅像と天守です。
平服姿の高虎の騎馬像です。ほとんど鎧兜姿なの
で平服姿は珍しいです。
⑦から撮影した鉄御門です。
鉄御門を出たところです。
⑧から撮影した鉄御門枡形です。この辺りの桜はまだちらほら咲きでした。
今日はここまでです。明日に続きます。
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