津堂城山古墳と小山城の紹介3 小山城と梅の花 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今日は津堂城山古墳を利用した小山城の紹介です。


小 山 城 址とは(大阪府全志より)

小山城址は東方にあり、大字小山との境に近し。高さ六丈・周圍五町

にして蓮池之を繞れり、盖し濠池ならん。安見氏の系譜によれば、寛正

三年逝きし安見備中守清時は、畠山義就に属して小山城に居り、其の

子兵部助清重、孫掃部助清範を經て太郎左衛門尉友重に至り、永禄

九年十一月二十三日三好山城守入道笑岩康長に襲はれ、友重防ぎ

戰ひしも終に支ふる能はず、開城して交野城に移れりと記せり。今に

三好氏の城址なりといへるは、盖し當時より三好氏の有に歸して同族

の居るし所なるに依れるならん。三十三所圖會に、天正元年織田信長

の若江に三好氏を攻むる時、織田信包・瀧川一益五千騎を以て高屋

口に備へしは小山城の押えなりと記せるは、當城を指せるものにして、

其の落城せしも同年なるべしといふ。口碑に依れば信長の此に攻め来

りしは朝の間にて、僅二時ばかりの間に陥落せりと。後方部に石窟二

あり、狐狸の巣窟なり。其の城のありし所なるを以て俗に城山と呼び、

二の丸・三の丸・殿町等の字地を存せるも、其の形は前方後圓にして、

正しく古墳なるべし。明治四十五年三月偶然後圓頂上を発掘したるに、

長さ壱丈参寸四分・幅四尺九寸・高さ五尺貳寸五分の精巧なる石棺

を發見せり。全棺整然として内に朱八升許・曲玉三箇・管玉貳拾参箇・

鏡等を存し、其の外郭との間には刀・剣などあり。石棺は長持形にして、

蓋石の重量貳千貫饐に達し、故坪井正五郎博士は壹千年以上のもの

と鑑定せり。口碑なく傳説なく勿論記録の存するものなければ、其の

何人の墳なるかは之を知るに由なきと、一見して其の或は貴顕の陵

たらさるかに想到せずんばあらず。古くは傳説等もありしならんも、

築城兵亂等の為消滅して之を傳へざるは憾むべし。或は此の地の志紀

郡なるに因みて志紀王の陵なりとし、又は宿禰の子某の墳なりとする

ものあれど、共に詳ならず、識者の精査を俟つ。然るに山林壹畝拾歩・

原野貳畝拾五歩は、前記發掘物と併せて大正六年十二月三日金貳

千参百圓を以て宮内省に買収せらる。其の買収せられたる理由は明

ならざれども、調査考證を得たる結果ならんには、保護の途其の宜し

きを得るに至るならん。

                         (大阪府全志より引用)

 

写真の一番手前が三の丸で、通路を通り内濠を渡ると、古墳前方部を削っ

た二の丸になります。そして、墳丘部分が本丸となります。大規模な前方後

円墳にある、手にあたる部分(造り出し)も削られています。車が進入出来

ないようにしてあり、駐車場がありません。なので、私はこの近くの時間貸

しの駐車場に車を止めました。

 

次に現地の史料より

古墳として発掘がされていますが、小山城としての発掘は

されていません。


小山城は古墳の丘陵を使って、墳丘部分が本丸で、南東の

墳丘部分を削り、平地にして二ノ丸にしてしまったので古墳

の形が崩れ、明治の頃は古墳ではなく城跡だと思っていた

ようで、本丸などの小字名がつけられていました。内濠を挟

んで三の丸がありました。外濠の外には殿町という地名も

あり、配下の武家屋敷があったと考えられます。

 

街道が下側なので、そちら向きに造られています。

 

二ノ丸跡です。

 

本丸の頂上部(後円部)から北西方向を見たところです。

 

本丸から見た、二の丸のグランドで、その向こうに内堀(内濠)があります。

 

上の写真と反対方向です。二ノ丸とその向こう側に内堀(内濠)が見えます。

 

城の南にある小山村が交通の要衝にありました。(江戸時代後期の地図)

 

築城時期は

 築城年代は定かではないのですが、南北朝時代に志貴右衛門

によって築かれたといわれます。 志貴右衛門は南朝方として八尾

の別当兼幸と争ったそうです。

室町時代後期から戦国時代には
高屋城主で河内国守護職畠山義就は、重臣の安見備中守清時

小山城主としました。古市にある高屋城が河内守護主城でしたが、

安見(やすみ)氏を小山城に入れて高屋城の支城にしたようです。 

安見清時ののち、安見清範安見友重と城主が続きますが、永禄

9年(1566年)に、三好康重によって攻められ落城、安見友重は

交野城へ退きました。小山城は三好氏の城なりますが、天正元年

(1573年)に織田信長が若江に三好氏を攻めた時に、織田信包と

瀧川一益が、五千騎で高屋城・小山城に攻め寄せて、三好氏の城

であった小山城は落城しました。織田勢がここに攻めて来たのは

朝の間で、4時間ほどで落城しました。以後小山城は破却されまし

た。

 

安見氏について調べると
居城:河内国交野城  若狭国保見荘より起こりました。

交野市教育委員会資料より引用でしています。若狭守清衛が初代

ですが、光考源氏の系図には無いようです。安見を「あみ」と書いて

いる書物もありますが、保見荘より起こりましたので、「やすみ」が正

しいようです。

清賢は南朝方に属して、護良親王に従って吉野山で足利方と戦い

討死しています。
清儀はやはり南朝方で、楠正儀に属し活躍します。安見氏代々の

居城・私部城(大阪府交野市)は、清儀の頃に築城されたとされま

す。
清時は畠山義就の重臣で、小山城(現、大阪府藤井寺市津堂)に

配せられる。以後、小山城は安見氏3代の居城となりました。永禄
9年(1566年)に、三好康重によって攻められ落城し、安見友重は
交野城へ退きました。

安見直政は清儀より九代後だそうで、安見友重と同人物か?勢力

を挽回して、主家・畠山氏を追放し、自ら河内守護と称し高屋城を

居城としたが、三好長慶に攻められ飯盛山城に籠城しますが、後に

大和に逃亡しました。しかし、織田信長の河内統一後は畠山氏に

帰参し交野城を回復したといいます。 なお、安見氏は直政の死後、

筒井順慶に居城・私部城を攻められ滅亡しました。

 

最後は梅林の梅の花写真です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これで津堂小山城の紹介は終わりです。明日は葛井寺の紹介です。

 

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