道明寺天満宮1 歴史と梅の花 | みどりの木のブログ

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 大阪府藤井寺市にある道明寺天満宮は大坂夏の陣で

道明寺の戦いがあった所です。

去年も紹介しましたが、今年は宝物館の見学が出来る
日の、2月19日に訪問しました。梅の花は5分咲きです
が、早咲きの梅はほぼ満開でした。
道明寺天満宮には約60種800本の梅があります。
 
逆光で撮影した白梅の花です。
 
早咲きの紅梅の花です。露出補正を+1.7にしました。
 
1575年の河内高屋城の兵乱で、社殿が全焼したため、
現在の社殿に国宝はありません。しかし、宝物館には難
を逃れた、6点の菅公遺品の国宝があります。
ご祭神は
    菅原道真公(学問の神様)
    天穂日命(天照大神の御子様)
    覚寿尼公(道真公のおば様) 
 
道明寺天満宮の南にある神門です。
左側に少し見えていますが、土師窯跡の石碑があります。
 
土師窯跡の石碑です。
 
神門にあった梅まつりのポスターです。
 
歴史から紹介します。
垂仁天皇の32(西暦3)年に、相撲の祖といわれる野見
宿祢が、「はにわ」を創って殉死に代えた功績で、「土師」
の姓とこの辺り一帯を所領地として賜わります。古墳の
設計施工でも功績があり、氏族に土師氏という姓が天皇
から与えられたとも言います。遠祖の天穂日命をお祀り
したのが土師神社の始まりです。
後、仏教が伝来し、推古天皇の2年、聖徳太子の発願に
より、土師八嶋が自宅を喜捨し土師寺が建てられました。
大きな古墳を造らなくなったので、土師氏は4つの姓に
分かれます。土師・菅原・大江・秋篠の4つです。
平安時代
 菅原道真は京都から讃岐国守として赴任したときに、
疲弊していた国を建てなおすなど善政を行い、住民に大
変慕われました。その実績を宇多天皇に認められ京都
に戻り、宇多天皇から厚い信任を受け、政治の中心で
活躍しました。右大臣に任じられ、国家の善政に尽くしま
す。土師寺には菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が
んでおり、道真公も時々この寺を訪れました。
昌泰元年(898年)10月、道真公は宇多上皇の片野宮
滝御幸に随行しました。その後で龍田山を経て、河内国
に入るときに詩を詠んでいます。

 満山の紅葉心機を破る
 況んや浮雲の足下に飛ぶに遇ふをや
 寒樹は知らず何れの処にか去る
 雨中に錦を衣て故郷に帰る

「故郷」というのは土師寺のことです。
 

57才にして従二位右大臣に昇進しますが、無実の罪で

九州大宰権帥として、左遷されて京都の家を出るときに

詠んだ歌が有名です。


「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」
(初出の『拾遺和歌集』による表記です。)
 

そして、淀川を下る舟の中でも、


「世につれて浪速入江もにごるなり 道明らけき寺ぞこひしき」 

 

と詠み、道明寺の訪問を許されました。そして、道明寺

でおばの覚寿尼公との別れを惜しまれ、八葉鏡にお姿

を映されて犀角柄刀子(国宝)で自像を荒木に刻みまし

た。

 

「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の なからん里の暁もかな 」

 

との御歌を残して西海に赴きました。901年のことです。

 

のちに、九州で903年2月25日に菅原道真が亡くなると、
ベルト(国宝)などの遺品が、道明寺のおばのもとに送ら
れました。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡、ベルト等が
神宝として伝わり、その6点が国宝の指定を受けました。
道真の誕生地は諸説ありますが、この道明寺天満宮も
その有力な1つと考えられます。
菅原道真の死後に、道真の祟りで、京都の都では天変
地異や、清涼殿に雷が落ちるなどがあり、道真の霊を
めるために、京都で北野天満宮の建立が行われました。
また、土師寺・土師神社が道明寺天満宮となりました。
道明意味は道真の幼名が道明だったので、道明寺
天満宮なったと言われます。
 
宝物館で見学した国宝とは
宝物館でもらったパンフレットより引用しました。
牙笏は厚みがあり、カンニングペーパーを貼り付けたり、
危険なときは武器にもなります。
 
宝物館でもらったパンフレットより引用しました。
 
その後天暦元(947年)年に、残された木像を北丘にお祀
りし、ご遺品をご神宝として安置し、「土師寺」を「道明寺」
と改称します。延慶3(1310年)年には、西琳寺の僧鑁阿
に神託があり八葉鏡に勅封を賜わります。
 
戦国時代以降
天正3(1575年)年に、河内国高屋城の兵乱に、社殿等が
焼失しましたが、幸い御神像と宝物等は難を免れ、この
に織田信長公より寄進がありました。その後、豊臣秀吉よ
り、さらに徳川幕府よりも代々の寄進があり、享保年中に
霊元天皇、中御門天皇より女房奉書を賜わってから明治
初年まで毎年初穂料が下賜されてきました。
 寛永10(1633年)年に、石川の氾濫により坊舎等は北
丘の神社境内に移りましたが、明治5年の神仏分離により、
五坊の中で二之室が神職家となり、道明寺は道を隔てて
西に移築され、現在に至っています。
 
 道明寺天満宮の境内図(左が北)です。下に神仏分離で分離した道明寺があります。
 
グーグルより引用の地図です。右端の近鉄道明寺駅の右側は石川です。
 
 道明寺天満宮の古地図です。明治の神仏分離以降の絵図です。
 
また明治10(1877年)年には、明治天皇の行幸の際に行在
所となりました。
明治維新後100年を記念して、昭和43年に総合結婚式場
の天寿殿を新築しています。
天寿殿です。
 
天寿殿内で庭を見ながらいただける、観梅弁当が2500円で販売されています。
 
神門を入ると
右側には広い無料駐車場があります。
 
「梅まつり」期間なので、露店が出ています。
 
発掘された修羅(石などの運搬に使う)のレプリカが展示
されています。土師氏は土師器製造以外にも、古代古墳
の設計・築造もしていました。現在でも堺市など地元には
土師の名字を持つ人がたくさんいます。
 
元宮の土師社からの写真です。
 
境内にある土師神社の鳥居と、その奥に拝殿、さらに奥には本殿が見えます。
 
拝殿から見た本殿です。左側に小さな梅園があります。
 
本殿と紅梅です。本殿の左側には梅の木が10本ほどあります。
 
その梅の木を撮影しました。
背後に天寿殿が見えます。
 
 
持参した水をかけて、水滴を作り撮影しました。
水滴に梅の花が映りました。
 
同上です。
 
梅の花のつぼみです。
 
今日はここまでです。続きは明日UPします。
 

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