妙国寺(冬の陣で家康の宿舎) 堺市文化財特別公開の紹介5 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今日は蘇鉄で有名な妙国寺の紹介です。

堺を走るチンチン電車で御陵前から妙国寺前に移動しました。

妙国寺前です。

この駅から歩くと

妙国寺が見えてきました。

 

 

現在の堺地図です。地図の右端中央に妙国寺があります。

 

 

妙国寺です。

妙国寺(みょうこくじ)は、大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山(由緒寺院)です。

山号は広普山(こうふさん)で、開基は三好元長の次男三好之虎(三好実休)で、

実休は戒名です。開山は日珖上人です。

  

1562年に畿内を支配した三好家の、長慶の弟、三好之虎(実休))の帰依を

受けた日珖上人が、大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地と寺領500石を、

実休から寄進されます。

父で堺の豪商であった油屋伊達常言(兄の常祐も協力して)がここに常塔伽藍を

建立寄進して、広普山妙國寺と称し、皇室より勅願所と定めました。寺名は日蓮

宗の僧である日珖の師日祝の号「妙國院」によります。実休は同年の1562年

に紀伊国の根来衆の援助を得た畠山高政により、久米田の戦いで戦死します。

享年36でした。

三好実休肖像画です。三好義賢とも言われますが、俗名の諱は之相で後

に之虎としました。ただし、書籍によっては実休の俗名を義賢や之康として

います。

 

元亀2年(1571年)に本堂竣工。天正11年(1583年)までに、寺地に14

の坊、南北の学問所などを備えた伽藍ができました。 元和元年(1615年)

の大坂夏の陣で大阪落城に際し、豊臣の将大野道犬は、徳川家康妙國寺

にありと聞き、乱入諸堂に火を放ち全山灰陣燼と化します。その後、寛永5

年(1628年)に本堂再建、続いて祖師堂、三重塔は万治元年(1658年)

に建立、寛文2年(1662年)に表門、寛文5年(1665年)に書院、元禄9

年(1696年)に宝蔵、正徳元年(1711年)に客殿と鐘楼・方丈・勅使門・

経蔵・徳正殿・その他支院等旧観を再現します。しかし、第2次大戦の末、

昭和20年7月0日に堺大空襲による戦火で再び大半を焼失します。昭和

48年(1973年)に本堂を再建します。

現在の本堂です。この階段の間にある1階玄関より入ります。

拝観料は400円です。

 

ここも撮影禁止なので、、もらったパンフレットなどから説明します。

門前にある説明板です。13日の明日まで寺宝も公開されています。

 

 

樹齢1100年と言われる蘇鉄です。(上の写真の拡大です)

 

本堂の右側です。手前が千利休寄贈の手水鉢です。奥に蘇鉄が

あります。亀の上に乗っているという造りです。十数本の株があり

そのうち雌株が2本です。

 

最近まで石の柵で囲われていました。

この状態で蘇鉄が弱ってきたので、弱った原因の石柵を撤去しています。

 

現在の蘇鉄です。国指定の天然記念物(1924年12月9日指定)

 

織田信長はその権力を以って、天正7年(1579年)にこの蘇鉄を安土城

に移植させます。あるとき、夜更けの安土城内で、天下を獲る想を練って

いた信長は庭先で妙な声を聞き、森成利に探らせたところ、庭の蘇鉄が

「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長

は激怒し士卒に命じ蘇鉄の切り倒しを命じます。しかし家来が斧で蘇鉄を

切りつけたところ、みな血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ即

座に妙國寺に返還します。しかし、もとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、

枯れかけてきました。哀れに思った日珖が蘇生のための法華経一千部

を誦したところ、蘇鉄が「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、

報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げます。日珖上人が早速

門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇りました。

寺では御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀っています。爾来、これ

を信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元

に埋める姿が絶えなかったといいます。

 蘇鉄は鉄分を好み、幹の中空部分に、鉄分のある赤い液をためること

があります。切りつけた時に、その赤い液体が飛び散り、血が出たと

われたようです。

 

江戸時代に再建された妙国寺です。(江戸後期の名所図会)

 

第2次世界大戦の空襲で再び焼けますが、戦前の古写真があります。

空襲で今は無い本堂と三重塔の古写真です。(堺市図書館より引用)

 

空襲で今は無い本堂と三重塔の古写真です。(堺市図書館より引用)

 

天正10年(1582年)の本能寺の変の際、堺を訪れていた徳川家康は

妙國寺に宿泊していたが、変を聞き、妙國寺僧、油屋親子の助けを得て

難を逃れたと伝えられます。この時このお寺と親しかった大和郡山城主

の筒井氏も協力したといいます。伊賀越えでは服部半蔵の助けがあり

ました。その後、大坂冬の陣のときに、休息のために再びこの妙国寺に

滞在しています。その時に心が安らぐようにと枯山水の庭を造りました。

 

家康のために造られた枯山水の庭です。

この庭には大蘇鉄の子株が使われています。

家康のために静岡県の風景を写しています。(パンフレットより引用)

富士山大井川・富士川などの景色があります。

 

この時に、家康は灰被りの天目茶碗(国宝)ももらい帰国しました。

その返礼として、蘇鉄を詠んだ歌

「妙なりや 國にさかゆる そてつぎの ききしにまさる 一もとのかぶ」 家康

と光堂天目茶碗を届けさせました。

当然、江戸時代の再建には徳川家の多大な協力がありました。

120石の寺領も与えられました。

 

妙国寺は勅願時なので檀家が無いために、第2次大戦で焼失した後は、

資金援助者がいなかったため、寺地を売却しています。そのために小さく

なり寺地は半分程になりました。

1728年の堺古地図です。

 

現在の下地図で赤枠内が江戸時代の寺地です。

そして、黄色枠内が現在の寺地です。かなり小さくなっています。

現在の堺地図です。(チンチン電車の地図から引用)

堀は現在埋められて、高速道路になっています。

 

次は1867年の「堺事件」です。

慶応4年2月15日にフランス軍艦より水兵100人が上陸し、市内を闊歩し

婦女子を追回すなど傍若無人の振舞いに、堺警備隊の土佐藩士が応対

したが、双方言葉が通じないため両者銃撃応酬の末、フランス兵11名の

死者を出すにいたり国際問題となりました。本事件はフランスに賠償金の

15万ドルを払うと共に、箕浦猪之吉、西村左平次(この2人が上士で以下

は足軽でした)等土佐藩士20名は切腹を命じられました。同2月23日、

妙國寺において日仏立会人の面前で堂々と割腹し自刃しました。12人

目にかかりフランスの立会検視人もその凄絶の様に見るに忍びがたく

切腹は中止となり、11名の切腹のみで済みました。残りの9名は土佐に

流刑となります。12人目は助かったのですが、12人目の武士橋詰愛平

氏はこの堺に留まり、死ぬまで11人の墓守として供養をしたといいます。

宝物資料館を見学したら、この土佐十一烈士の肖像画・遺品・遺髪があり

ました。この時切腹した場所の土地は売却したといいます。住宅地にな

っていますが、住んでいる人は知らないそうです。

土佐十一烈士の慰霊碑です。

 

写真中央辺りに宝珠院の山門が見えます。

土佐十一烈士 墓は妙国寺の北側にある宝珠院境内に葬られ、

墓碑は土佐藩主 山内豊範(やまのうちとよのり)により建てられ

ました。この墓碑の正面には戒名、側面に俗名が彫られていま

す。なお、フランス人水兵の亡骸は、神戸市旧居留地外人墓地

に葬られました。

 

最後に明治25年に正岡子規と夏目漱石が、奈良などの関西を旅した

時に、この妙国寺に立ち寄りました。その時に読んだ子規の句碑があ

ります。「朝霧や 蘇鉄見に行く 妙国寺」 子規

奈良では「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句を詠んでいます。

 

今日はここまでです。明日は本願寺堺別院・棚田夢まつりの紹介です。

 

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