奈良県明日香の飛鳥寺の紹介 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今日は飛鳥寺の紹介です。

昨日は西門跡の入鹿の首塚まででした。

 

西門跡から見た飛鳥寺です。

 

 飛鳥寺は588年に、百済から仏舎利(遺骨)が献じられ

たことにより、蘇我馬子(入鹿の祖父)が寺院建立を発願し、

596年に創建された日本最初の本格的な仏教寺院です。

初めは法興寺とよばれましたが、現在の飛鳥寺は、安居院

(あんごいん)と呼ばれています。

創建当時の飛鳥寺のイメージ

 

 創建時の飛鳥寺は,五重の塔を中心に東・西・北の三方

に金堂が造られ、その外側には回廊をめぐらす伽藍配置

でした。 寺域は東西約200mで南北約300mありました。

百済から多くの技術者がよばれ、瓦製作をはじめ,、仏堂

や塔の建設に関わります。瓦を製作した集団は、この後

豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わります。これらの技術を

身につけた人たちやその弟子たちが全国に広がり、各地

の寺院造営に関わるようになります。

 

槻の木広場の右に飛鳥寺が描かれています。

主要伽藍はこの寺地の中央ではなく南西寄りに建てられており、

寺域の東部と北部にはさまざまな附属建物が存在したと推定で

きます。(上図参考)

 

本尊飛鳥大仏(釈迦如来像)
 「日本書紀」より年代のわかる現存の仏像では日本最古

のものと言われています。

飛鳥大仏
 金銅仏の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、推古天皇が止利仏師

(鞍作止利:もとは馬具製作に携わっていた、百済からの渡来

系氏族の一人)に造らせた丈六(約4.85m)仏です。605年

に造り始め,606年に完成します。
 しかし,887年と1196年の落雷のため火災に遭い本堂が

焼失しますが、江戸時代に再建されました。飛鳥大仏も補修

されますが,顔の一部,左耳,右手中央の指3本だけが当時

のまま残っています。脚部は銅の上に粘土で衣文をつくって

あったり、左手は木製のものを差し込んでいるそうです。また、

像の各所に亀裂があり、亀裂の上から紙を貼って墨を塗っ

たところもあります。

 

江戸時代に造られた、現在の本堂(もと中金堂)です。

 

飛鳥寺説明板です。蘇我馬子は聖徳太子とともに物部氏

を滅ぼして、飛鳥寺を造営し、聖徳太子はこの本尊に誓い、

十七条憲法を示しました。

 

本堂前にある五重の塔の中心地です。

 

塔跡は地下式の心礎などが残っていたのですが、

心礎以外の礎石は残っていませんでした。心礎は

地下2.7メートルに据えられ、中央の四角い孔の

東壁に舎利納入孔がありました。舎利容器は建久

7年(1196年)の火災後に取り出されて再埋納され

ており、当初の舎利容器は残っていないが、発掘

調査時に玉類、金環、金銀延板、挂甲、刀子など

が出土しました。出土品からは、この寺が古墳時

代と飛鳥時代の境界に位置すると考えられます。

蘇我入鹿の墓も古墳ではなく、五輪塔であるのが

印象的でした。

 

飛鳥寺の山門です。

飛鳥大仏と書かれた石碑は1792年に制作されています。

その下にある石は、飛鳥寺創建時の礎石です。

 

本堂と左に観音堂です。

 

観音堂です。

 

 

 

 

飛鳥寺は平城京遷都とともに移転し、元興寺と名を変えます。

このとき,飛鳥寺に使われていた建築材も運ばれ再利用され

ました。瓦もそのまま使われ、現在に至っています。しかし、

大仏は本元興寺と名を変えた飛鳥寺に残ります。

 

今日はここまでです。

明日は飛鳥板葺宮跡の紹介です。

 

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