但馬天空の城の竹田城の紹介1 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

今日は天空の城で人気の出ている竹田城の紹介です。
今日は竹田城に石垣ができるまでの歴史と写真です。


天空の城として有名な竹田城の写真です。(パンフレットより引用)
別名虎臥城(とらふすじょう)とも。国の史跡に指定されています。
また、日本名城100選にも選ばれました。
上の写真は円山川の朝霧に浮かぶ竹田城です。下図の立雲峡
第一展望台から撮影されたものです。


2005年4月1日に同郡山東町、朝来町、生野町が合併
して朝来市(あさごし)が出来ました。。合併後の人口は
約3万5千人です。数年前この市に竹田城課が出来て、
竹田城の整備と観光を担当しています。

 そのおかげで、以前は登るのが大変でしたが、城の山
中腹に山城の郷駐車場を整備して、そこから専用のマイ
クロバス・タクシーで城跡近くまで行けるようになりました。


山城の郷一般車駐車場です。ここから先は専用のバス・タクシー
でしかいけません。ここは無料ですが入山料大人500円が必要
です。上の絵地図参照

この山城の郷から見た竹田城跡は


拡大すると

 

1431年に但馬守護山名宗全(持豊)によって築城され
家臣の太田垣(おおたがき)光景が初代城主と言われま
す。
 この時期、但馬守護山名氏と播磨守護赤松氏の間で
軍事的衝突が起こります。1441年6月、室町幕府6代将軍
足利義教が重臣で播磨・備前・美作守護赤松満祐に暗殺
され、幕府による追討軍に山名宗全が志願します(嘉吉の
乱)。8月に幕府より追討令を受けた宗全は一族を動員し
て3方から播磨を攻め、宗全軍は丹波より生野から播磨
に入国し、9月に城山城にいる満祐を滅ぼします。
10月に宗全は恩賞として任命された播磨守護として入国
し、太田垣(おおたがき)氏を播磨の守護代とし赤松氏の
掃討戦を実施しています。
 戦国時代に織田信長と毛利氏の間が次第に悪化すると、
信長は播磨に羽柴秀吉を派遣します。天正5年(1577年)
10月、羽柴秀吉は黒田孝高に迎えられ姫路城に入城、
それから1ヶ月で播磨の諸将から人質をとり帰服させる
ことに成功します。その後羽柴軍は二手に分かれ、秀吉
率いる本隊は上月城を攻城、別動隊は秀吉の弟の羽柴
秀長が3千兵を率いて但馬に進軍します。
秀長隊の狙いは2つあったように『史跡・竹田城跡』では
解説していて、一つは毛利軍に帰服している但馬諸将
の制圧、もう一つは生野銀山の確保が目標であったよ
うです。竹田城は生野銀山を管轄しているので、秀長隊
の第一目標になり、11月に秀長隊は真弓峠から但馬に
侵攻、まずは岩洲城を攻城し、次いで竹田城を攻城し
ました。武功夜話にある戦いの様子は


「太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将
羽柴小一郎(秀長)殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩
悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ
懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向
かい候。寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手
より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶
わず降参、城を相渡し退き候なり」
                             —武功夜話

と、竹田城では3日間の戦闘が繰り広げられた。

また『信長公記』によると、「直に但馬国へ相働き、先山口
岩州の城を落城し、此競に太田垣楯籠る竹田へ取懸り、
是又退散、則、普請申付け、木下小一郎城代として入れ
置かれ候」

                             —信長公記
信長も生野銀山の重要性に着目して、竹田城を銀山支配
の拠点にしようとしています。この時、石垣で竹田城の普請
をします。 明日はその普請から解説します。

かなり歩きましたが、登山の苦労なく城跡まで行ったので、
その時の写真です。


ここは関係者用の専用駐車場です。上の絵地図の停留所です。
ここから歩きになります。


ここから城跡まで20分ぐらいの歩きになります。

この門の下では


整備された一本道です。



こんな道です。工事用の車両しか通れません。

さらに歩道は一方通行です。



ここまでの道途中に八重桜が咲いていました。4月17日なので
ふつうの桜は散って残念でした。



 その他に山つつじが咲いていました。

 
こんなきれいな花のような若葉もありました。もう新緑の季節ですね。



歩いている途中で見えた下界の景色

和田山の町が見えています。



さらに歩くと大手門跡が見えます。


大手門の跡です。
ロープのある整備された階段を登ると


大手門跡です。



竹田城縄張り図です。赤い線の所を歩きました。

大手門の階段を登ると北千畳の広場があります。




ここから下の町を見ると


下の町がよく見えます。
長くなるので今日はここまでです。
太田垣氏までは石垣のない土の城でしたが、
明日は石垣の出来た歴史を紹介します。

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