真田丸だった三光神社の紹介 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

 前回の続きです。
11月1日に真田幸村博に行く途中で、
三光神社ののぼりを見たので、三光
神社に行きました。
朝方まで雨が降り、まだ小雨が降って
いました。
花が咲いていたので撮影しました。

小さいですが、水滴の中にコスモスの花を写し込みました。


水滴があるのでみずみずしいです。


花の拡大写真です。水玉には草が写っています。

 三光神社の歴史をウィキペディアと神社のWebぺージで見ると、
反正天皇の時代の創建と伝えられる。寛文元年(1661年)に一旦
現在地の南東の鎌八幡の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び
現在地に戻ったという。
かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。

三光の名の由来は、
中風封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻(現 宮城県仙台市宮城野区)
の三光宮(現 青麻神社)を勧請し、三光の名の方が有名になった。

明治15年(1882年)の『大阪名所独案内』に三光宮を勧請した旨が書かれ
ており、勧請はそれ以前ということになる。明治41年(1908年)、姫山神社に
境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」とした。
3柱の神を祀ることから「三柱神社」とも、「日月山神社」ともいう。

鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。かつては大坂城の出城「真田丸」が
置かれ、大坂の陣のときには真田幸村が大坂城から当地までの抜け穴を掘った
という。社殿の下に穴が残っているが、これは後世作られたものである。
境内には黒田屏風に描かれた真田信繁(幸村)を元にした像がある。


三光神社の入り口


階段を登ったところ。


振り返り入口を見たところ。


神社の説明板


実際ここが真田丸だったので、こんな感じだったのでしょう。


この抜け穴は後世の物で、そんなに長くはありません。
写真右端の階段を登ったところに本殿があります。


第2次大戦の空襲で焼けたが、再建された本殿です。


本殿横の社務所



右側に寿老神の像があるのは、江戸時代に大坂七福神の
神社の1つとして、三光神社は寿老神を祀っていました。
左の石碑は句碑です。


句碑
この神社は高台になっていて、


南東方向を見たところですが、神社が高い所にあります。


グーグルの地図

幸村博終了後に、私は真田丸と言われる所を、歩き回りました。
明日はその実地調査から、真田丸の実像を考えた結果をUPし
ます。