合格祈願の家原寺(えばらじ)2 | みどりの木のブログ

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前々回の続きです。
私の地元なんですが、子供の頃から「えばらの文殊さん」と呼んでいました。
開山した行基菩薩の略伝は
 河内国大鳥郡(現堺市)に生まれ、15歳で出家、道昭を師とし、
法相宗に帰依する。24歳の年に受戒。初め法興寺に住し、
のち薬師寺に移る。やがて山林修行に入り、この間に優れた
呪力・神通力を身につける。37歳の時、山を出て民間布教を
始めたという。710(和銅3)年の平城遷都の頃には、過酷な労働
から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、これら逃亡民のうち多くが
行基のもとに集まり私度僧になった。717(霊亀3)年、朝廷より
「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。この時の詔
には「妄に罪福を説き(輪廻説に基づく因果応報の説)、朋党を合
せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身自殺・皮膚を剥いでの写経)、
門を歴て仮説して強ひて余の物(食物以外の物)を乞ひ、詐りて
聖道と称して、百姓を妖惑す」とある。また僧尼が許可なく巫術
(舞を以て神を降す)により病者の治療をすることも禁止している。
行基37歳の時(慶雲元年)「もとの生家を掃き清めて仏閣となす」
と「行基年譜」に記されます。行基建立寺院の第一号です。


家原寺の南大門より本堂を望む


グーグルの家原寺地図
とんど場とは護摩を焚いて供養する所です。


行基菩薩像(玄奘三蔵の弟子道昭を師とするので、玄奘の孫弟子です。)
玄奘三蔵は道昭を同室で直接指導したと言います。道昭は行基と同じく
日本で架橋・灌漑などの土木工事をしています。
玄奘の師については、インドのナーランダ寺院紹介のこのリンクです。


お百度場は蓮池の周りを回る構造です。


②の所の石橋から見た蓮池


9月中頃ですが、数か所でハスの花が咲いていました。


右が水かけ不動と、左が手洗い場
ここに猫がいました。


かわいい猫


本堂の写真です。地図③から


合格祈願のハンカチが多量に貼ってあります。
本堂左側で700円を喜捨すると、ハンカチが戴けます。


本堂の内部(ブログを見た方が試験に合格しますように祈りました)


本堂側面にもハンカチが多量に貼ってあります。


これが経蔵です。右の階段を上がると塩穴寺に


これは塩穴寺(塔頭寺院?)です。



塩穴寺にあった石碑の説明板
この左にあるのが塩穴寺本坊ですが写真撮り忘れです。
比較的に新しい民家風の建屋でした。


本堂の西側にあるぼけ除けの観音様
さらにその西側には3師堂があります。


三師堂 地図④から


本堂の東にある薬師堂です。


薬師堂の北側にある裏門です。


裏門横の池


これも薬師堂

塔頭の中院に行くと


平成に建てられた三重塔です。


中院の五百羅漢様


中院の慈母観音様
再び地図②に戻り撮影しました。


観音様の像
本尊は文殊菩薩ですが、観音菩薩の像がいくつかありました。
後世で観音菩薩信仰が広まって有名になったからだと思います。

インド旅行記の「維摩経」で文殊菩薩の話が出ていました。
そのリンクはここです。
この家原寺を創建した行基が難民救済・橋や池(狭山池など)の堤
などの土木工事で人々を救済したので、後に弘法大師も、お経を唱
えて修行するだけではない、現世で人々を救済した行基を讃えてい
ます。反政府的でないと分かって、朝廷は奈良の大仏の製造責任者
としています、最後に朝廷は、行基を日本初の大僧正に任じています。
また、朝廷より菩薩の諡号を授けられ「行基菩薩」と言われる。当時から
行基は「文殊菩薩の化身」とも言われています。なお、行基が迎えたインド
僧侶の菩提僊那は752年、聖武天皇(749年に退位し当時は、太上天皇)
の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。
 この他に行基は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされます。


日本最古の日本地図である行基図
行基の弟子たちの活躍で作成できたらしい。
最後に文殊菩薩の像がありませんでしたので、Web上でお借りしました。


現代風ですが文殊菩薩は手に剣とハスの花を持っています。


次回はこの寺の西側にあった家原城の紹介です。